2026年7月19日礼拝説教「天の国の価値」

聖書箇所:マタイによる福音書13章44~46節

天の国の価値

 

 今日の箇所では、二つの似たたとえが語られています。それにより、共通した事柄がより強調されて浮かび上がってきます。同時に今日の二つのたとえには、違いもあります。この違いから天の国の多様性もまた見ることができるでしょう。それでは早速、一つずつたとえの内容を見てまいります。

 まずは一つ目のたとえです(44節)。原文では、天の国は畑に隠されている宝に似ている、と明言されています。また「宝」は、宝物庫を意味する言葉です。宝箱のようなものが畑に隠されている状況です。ある人が、畑に隠されたこの宝箱を見つけました。この人は、宝を探し求めていたわけではありません。意図せず、そして思いがけず、彼はたまたま宝である天の国を見つけました。彼はおそらく、この畑で雇われて農業をしていた小作人の立場でした。よってこの宝はまだ、彼のものではありません。彼はその宝をそのまま隠し、喜びながら帰りました。そして持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うのです。宝が埋まっていることを知っている彼にとって、この畑は全財産を売り払ってでも得る価値が十分にあるからです。

 続いて、良い真珠を探している商人のたとえです。真珠は、この当時において高価なものの代表です。ゆえに全体の流れとしては、直前のたとえと類似しています。一方で、違う点もあります。主イエスが天の国にたとえているのは、良い真珠を探している商人です。もちろん良い真珠が天の国を指している面はあるでしょう。しかしそれ以上に、この商人の行動が天の国の姿を示しています。この商人は、良い真珠を探し求めていました。この点も、直前のたとえと異なります。彼はついに高価な真珠を一つ見つけました。彼が見つけたのは、わずか一つの真珠です。しかし彼にとっては、それで十分でした。彼は出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買います。持ち物をすっかり売り払ったわけですから、彼はこれまでのような商売を続けることはできません。それでも探し求めていた真珠を買うために、彼は持ち物を惜しみなく売ったのでした。

 これら二つのたとえで取り上げられているテーマは、天の国を得るための犠牲です。これはわたしたちの信仰生活にも直結する重要なテーマです。人の行動に関わらず与えられる神の恵みと、犠牲を払ってでも神に仕えるという行動の間には、緊張関係があります。信仰による義、信仰による救いを主張するプロテスタント教会は、人の行いを救いの根拠とすることを否定します。ここで言う「人の行い」とは、神のための犠牲、と置き換えてもよいでしょう。神のために多くの犠牲をはらった者が、より良い形で救いを得る。このような聖書理解を宗教改革者たちは否定し、信仰による救いを主張しました。わたしたちの教会もまた、この流れを引き継いでいます。

 しかしこの点を主張するがゆえに考慮しなければならないのが、人の行いの位置づけです。そのために、今日のたとえは重要な役割を担います。このたとえにおいて畑で宝を発見した人は、そのために何かを犠牲にしたわけではありません。後のたとえに登場した商人も、良い真珠を探し求めていましが、そのために何かを犠牲にしたわけではありません。それでも彼らは、天の国を見つけました。この点で、天の国はどこまでも恵みによって差し出されるものです。一方で両者は、見つけた天の国を得るために、持ち物をすっかり売り払っています。だから天の国を得るためには、この世のすべてを犠牲にしなければならないと主張する人もいるようです。しかしそれは、このたとえが伝えようとしているメッセージではありません。そもそも、持ち物をすっかり売り払った彼ら自身は、それが犠牲とはこれっぽっちも思っていません。なぜなら売り払った持ち物よりはるかに価値あるものを、すでに見つけているからです。ここに示されるのは、天の国の価値の大きさです。これほど価値あるものが、人の行いによらず恵みによってわたしたちに与えられています。この天の国の価値を目の当たりにしたとき、犠牲の行為としてではなく極めて合理的かつ自然な行動として、天の国のために仕えるという行いへと導かれるのです。しかし彼らの行為は、畑に宝が埋まっていることを知らない人々、真珠の価値が分からない人々には不合理な犠牲に見えたでしょう。ここに集って礼拝し、神に仕えるわたしたちもまた、そのような目で周囲の人々から見られています。しかし持ち物を売った本人にとって、これらの行動はいずれも、より価値あるものを手に入れるための合理的な行動です。彼らの心にあったのは、犠牲の悲しみや痛みではなく喜びです。キリストの十字架によってもたらされた天の国を見つけ、そこに入るとき、天の国の支配者であられる神に仕える行動は痛みや犠牲ではなく、より価値あるものを得るための合理的、かつ喜びを伴うものとなるのです。

 とはいえ、ここに集うわたしたちも、時には神に仕える行為が不合理に思えてしまうときがあるでしょう。あるいは教会のために時間やお金を使い、頭を悩ませることが、多大な犠牲であるかのように思えてしまうときがあるでしょう。天の国の価値が小さく見積もられるとき、神に仕える行為は不合理となり、犠牲を伴う重荷となります。そのような時にこそ、キリストが十字架にかかってまで得てくださった天の国を覚えたいのです。そこで与えられる、死を超えた永遠の命の価値に目を向けたいのです。この後わたしたちが与る聖餐式をとおして、まさにこの天の国の価値を、共に確認しようではありませんか。そのとき、わたしたちが神に仕えることのあらゆる不合理は合理に、そして天の国のためのあらゆる犠牲は喜びに変わるのです。天の国の価値に出会い、その喜びのなかに生きる者として、ここから新たな一週を歩みだしてまいりましょう。