2026年7月12日礼拝説教「収穫の時を見据えて」

聖書箇所:マタイによる福音書13章36~43節

収穫の時を見据えて

 

 主イエスはたとえを用いて、群衆たちに天の国を示しになられました。そして弟子たちだけには、たとえではなく直接その意味をお示しになられました。今日の箇所にもそれが当てはまります。毒麦のたとえは、24節以下で語られています。このたとえの一つ一つの言葉が何を意味しているのかを、主イエスは説明されます(37節以下)。13章冒頭の「種を蒔く人」のたとえでは、種が御言葉を、そして土壌がそれを受け取る人を指していました。一方このたとえでは、蒔かれた種そのものが人を指しています。そして人がどのように御言葉を受け取るかは、ここで問題にはされていません。御言葉に従って歩む者もいれば、そうではない者もいる。これはわたしたちが生きるこの世の現実です。刈り入れのときまで両者は混在し、一緒に育ちます。それを見据えながら、刈り入れのとき、すなわち世の終わりに何が起こるかが示されます(40~43節)。ここで主イエスは、良い麦のとして育った御国の子ら、すなわち正しい人々に与えられる輝かしい勝利を示しておられます。毒麦は、世の終わりにはすべて集められ火で焼かれます。つまずきと、不法を行う者どもはすべて、燃え盛る炉の中に投げ込ませます。こうして、正しい主による正義の裁きが行われます。そして主に従う正しい人々は、その父の国で太陽のように輝きます。17章2節では、主イエスキリスト御自身が太陽のように輝かれます。この神の栄光を、刈り入れのときには正しい人々もまた受けるのです。驚くべき勝利の輝きです。

 聖書の御言葉には、わたしたちの常識に照らして納得できない内容が少なくありません。それに対して今日の箇所で主イエスがお示しになっておられる世の終わりは、主を信じるわたしたちにとっては受け入れやすい内容です。ハッピーエンドと言ってよいでしょう。主イエスは、このような納得感のある内容を世の終わりの姿としてお示しになられました。それは終わりを迎えていない今の世界が、それとはほど遠い状況にあるからです。良い麦と毒麦は同じ畑で隣り合って育っています。良い麦も、毒麦も、畑から得られる栄養に違いはありません。毒麦のほうが茂るようなこともまた、畑では起こり得ます。主の御心に反すること、反する人々が、なぜこの世界においてこれほどまでに存在し栄えているのか。そう叫ばずにはいられないことが、良い麦と毒麦が混在する畑、すなわちこの世界には多々あります。教会に集いさえすればば、このような現実を全く避けることはできるわけではありません。地上の教会もまたこの世界の一部であり、毒麦と関係なく過ごすことはできません。教会の外からもたらされる理不尽、無理解、無関心に、教会は常にさらされています。教会の中にすら、様々なつまずきがあります。教会に来ているのになぜ。そう思うような言動が、教会の中で見られることはよくあります。教会は、決して理想郷ではありません。これがよい麦と毒麦が混在するこの世界の現実です。それは教会の外と中でも変わりません。ならばこの世界において、教会の内と外の違いはなんでしょうか。それは、主イエスの言葉が語られ、聞かれているという点にあります。それは世の終わり、刈り入れのときが来る、という言葉です。主を信じて生きる者にとってそれは、決して恐ろしいものではありません。ハッピーエンドと言える喜ばしい出来事です。キリストの光り輝く栄光を、このわたしにもいただける。そのような報いのときです。その喜びのときが、最後には必ず来る。それがこのたとえをとおして主イエスがお示しになられていることです。

 そのうえで主イエスは、耳ある者は聞きなさいと言われます。この言葉を聞いたわたしたちが問われるのは、この言葉を信じることができるか、です。この言葉を聞いていないならば、理想とはほど遠いこの世の状況をあきらめて生きるしかありません。あるいは世のルールにどっぷりつかり、そのルールのなかでのし上がっていくしかありません。一方教会で主イエスの言葉に聞くわたしたちには、世の終わりに起こることが示されています。だからこそ、主イエスの語られたこの世の終わりが本当に起こると信じることができるか否かが、わたしたちの生き方の分かれ道です。

 わたしたちの目の前には、主イエスの示された世の終わりとはほど遠い状況が広がっています。主イエスの示される世の終わりなど来るはずがないとあきらめるのは容易です。しかしそれでは、御言葉が語られていない教会の外側と何も変わりません。そのあきらめの先に、救いも希望もありません。ところで主イエスの言葉を信じられないとき、それがあきらめる以外にもう一つ別の行動として現れることがあります。自らの手で毒麦を抜き集めようとすることです。主イエスの示された世の終わりと現状が大きく異なるからこそ、自らの手でそれを実現しようとするのです。この毒麦のたとえにおいて、まだ見分けのつかない毒麦を抜こうとした僕たちがまさにそうでした。現代の世の指導者たちが、武力によって悪を滅ぼそうとするのもまた、自分の力で天の国を実現し、自分の力で光り輝く栄光を得ようとする姿に他なりません。それは、刈り入れのときに【神が】正義を実現し、【神が】それを与えてくださるという、主の言葉への疑いに他なりません。

 

 主の言葉が実現しそうにない世の中にあってなおわたしたちは、主の言葉を信じる者としてここに集っています。神がそれを、そのとおり実現してくださいます。それを踏まえて、今を生きるわたしたちの歩みを定めてまいりましょう。主イエスキリストをわたしたちに与えてくださった神が、わたしたちの希望を約束してくださっているからです。主の言葉を信じる信仰には、希望があります。この希望を固く持って、良い麦と毒麦がなお混在する世へと共に歩みだそうではありませんか。