2026年7月5日礼拝説教「始まりは小さくても」

聖書箇所:マタイによる福音書13章31~35節

始まりは小さくても

 

 13章に入り、種を蒔く人のたとえと毒麦のたとえが語られました。毒麦のたとえが説明されるのは、次の36節以降です。その間にはさまれる形で、「からし種」と「パン種」のたとえが記されています。小さなものから大きな結果がもたらされる。この点において二つのたとえは共通しています。ここから、天の国の姿を垣間見ることが許されます。

 まずはからし種のたとえです。天の国がからし種に似ているのは、蒔くときは小さかったからし種が、成長するとどの野菜よりも大きくなるという点です。このお話を聞いて、空に広がる大木を想像する方は多いと思います。主イエスが言われる「からし種」は、一般的にはブラックマスタードと呼ばれる植物であったと説明されることが多いようです。このブラックマスタードは確かに成長すると人の背丈よりも大きくなります。ただしその姿は、空の鳥が巣をつくるのには少々心もとないものです。このたとえにおいて主イエスが強調するのは、成長した後のからし種の立派さではありません。このお話から立派な大木を想像することには、少々注意が必要です。ここで主イエスが強調されているのは、種と成長した後との大きさのギャップです。弱々しく目立たない小さな種から、他のどの野菜よりも大きな姿に成長します。そして空の鳥が来て枝に巣をつくります。この表現は、旧約聖書においては神の救いが実現した姿を示すモチーフのひとつです(エゼキエル31:6等)。このモチーフが示すのは、救いの広がりです。主の民だけでなく多くの国民が、主なる神の救いの恩恵にあずかります。からし種のたとえにおいても、このような天の国の広がりが意識されています。小さなからし種が大きく成長した恵みは、周囲にまで広がっていきます。それが主イエスのお示しになられる天の国です。

 つづいてパン種のたとえも見てみましょう。まず注目したいのが、三サトンです。およそ50リットル、約150人分のパンを作る量です。個人経営のパン屋さんが一日に消費する小麦の量が、およそ40リットル前後のようです。三サトンは、それよりも多いのです。わずかな量のパン種が、これほどの量の粉全体を膨らませる。ここにもまた、天の国がこの世界に及ぼす影響の大きさや広がりを見ることができます。そしてもう一つ注目したいのが、「混ぜる」という言葉です。この言葉のもともとの意味は「隠す」です。パン種は隠されています。目立たない存在が、最後には全体に影響するほど大きな結果をもたらします。世界中に広がり大きな影響をおよぼすことになる天の国は、小さく目立たないところから始まります。

 からし種とパン種の2つのたとえが記されたあと、34節以降では主イエスがたとえを用いて群衆に語られた理由が示されます。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためでした。ここに引用されているのは、詩編78:2です。この詩編78編において、神が人々に対して強く求めておられることは、神が語られる言葉を聞くことです(詩編78:1)。ならばマタイ福音書が詩編78編を引用して求めていることもまた、主イエスの言葉に聞くことでありましょう。

 これを踏まえて、改めて「からし種」と「パン種」のたとえを見たいのです。ここにはからし種を蒔く人と、パン種を入れる女がいます。この人々は、すでに語られた「種を蒔く人」のたとえや「毒麦」のたとえにおける種を蒔く人とつながっています。それらは、人の子である主イエスキリストを示します。ならば今日のたとえでからし種を蒔き、パン種を粉に入れるのもまた、主イエスです。このお方が、小さな御言葉の種を蒔かれます。隠すようにして、パン種をしのばせます。そのようなところから、主イエスの御言葉の種が大きく成長していくのです。思えば十字架へと向かわれる主イエスキリスト御自身もまた、権力者のような偉大なお方でもなければ、社会のなかで目立つような存在でもありませんでした。今、わたしたちはこのお方の言葉に聞いています。わたしたちもまた、世にあって小さい者です。教会は、社会のなかで目立つ存在ではありません。日本においては特にそうです。そのような存在を用いて、主イエスは御言葉の種を蒔かれます。そのようなところからこそ、天の国は広がっていくのです。

 今世の中においては、なにかと自分を大きく立派に見せようとする傾向を強く感じます。そこにあるのは、自らが誰よりも強く大きくあらねばならない、立派であらねばならない、すごくあらねばならないという焦りです。そうでなければ自分が人々から虐げられ無視され見捨てられてしまうという恐れです。この恐れと焦りに追い立てられながら、自らを大きく立派に見せることをわたしたちは日々強いられています。しかし主イエスの語られる「からし種」と「パン種」のたとえを聞くとき、わたしたちはこの恐れと焦りから解放されます。わたしたち自身は弱くても良いのです。むしろ欠けがあり目立たないわたしたちを、あえて主イエスは選んでくださいました。成長した後の大きな木だけが天の国なのではありません。膨らんだ後の三サトンの粉だけが天の国なのではありません。小さなからし種が蒔かれ、わずかなパン種が隠されたそこに、すでに天の国はあるのです。

 

小さく目立たないからこその労苦が、わたしたちにはあります。教会もわたしたちも、何の力もないかのように人々からみなされています。しかしそこから天の国は、世界全体を変えるべく広がります。だからこそ、わたしたちは大きく立派である必要はありません。教会は弱いままでよいのです。それゆえの悩みを抱えながらも、なおこのお方の言葉に従って歩むのです。そこから天の国は、世界を変えるほど大きく広がっていくのです。