聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30節
良い麦を抜かないために
直前の種を蒔く人のたとえに続き、主イエスは毒麦のたとえを語られます。36節以降で、主イエスはこのたとえの意味を明かしておられます。特に37~39節では、このたとえに登場するものひとつひとつが何を指すか説明されています。それをふまえて、本日の御言葉に聞いてまいります。
主イエスはまず、このたとえによって天の国の姿を示すことを明確にされます。聖書における天の国とは、神のご意志が実現する場所です。一般的に理解されている天国とは、意味合いが異なります。とはいえ主なる神を信じるわたしたちにとって、神がご支配してくださる天の国は天国と言ってよいのだと思うのです。では皆さんが想像する天国あるいは天の国とはどのような国でしょうか。神の御心が実現するならば、悪い者など一切おらず、何の労苦も悩みもない国を想像するでしょう。麦畑でたとえるならばそれは、毒麦など一切なく、良い麦だけが実る理想的な畑です。しかしこのたとえにおける畑は違います。そこには毒麦も生えています。それゆえに主人も僕たちも労苦し、悩んでいます。
毒麦がある理由は、敵が来て毒麦を蒔いていったからです。もしかしたら復讐や嫌がらせの類かもしれません。畑には、主人の意志でない形で良い麦と雑草である毒麦が混在しています。畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らを指しています。このたとえの畑のように、善良な人々と悪い者の子らが世界には混在しています。そのなかで理不尽が起こり、正義は曲げられ、労苦と悩みは尽きることがありません。それはわたしたちが想像する天国とはほど遠いものです。もちろん良い麦と毒麦が混在するこの状況が、天の国なのではありません。大切なことは、このような状況のなかで神はどのような御心を持っておられるか、です。それが実現するところが、地上における天の国なのです。良い麦と毒麦が混在する状況を見た僕たちは、主人の所に来て主人に提案します。「では、行って抜き集めておきましょうか」。ここには、主人のために率先して働こうとする僕たちの姿があります。わたしたちこそが毒麦を抜き集め、良い麦しかない理想的な麦畑を実現してさしあげます、と。毒麦が混ざっているよりは、良い麦だけのほうがいいに決まっています。そうすればもう悩む必要はありません。何の憂いもなく、気持ちよく収穫できます。
しかし僕たちの提案に対して、主人は否定的です。毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれないからです。毒麦の特徴は、成長するまで麦との見分けがつきにくい点にあります。また成長する過程で、両者の根っこは絡まります。毒麦を抜こうとすると、良い麦まで抜いてしまうのは避けられません。ゆえに主人は、確実に見分けがつくまで両方とも育つままにしておくことを命じたのでした。効率や経済性の面では、先に毒麦を抜いておく方が優れています。僕たちの提案は、常識的かつ合理的です。しかし主人は、良い麦が一本たりとも失われることをよしとしません。この主人の思いにこそ、天の国の姿が示されています。それは、御国の子らを一人たりとも決して諦めないという神の愛のご意志が実現する国です。たとえ毒麦の横に生えていたとしても、それがどれほど毒麦のように見えようとも、良い麦が一本でも滅びることは天の国ではありえません。
僕たちは、主人の思いに反して行動しようとしました。彼らは主人のためを思い、毒麦のない理想的な世界を実現しようとしています。毒麦のように見えたり、毒麦の隣に生えたりしているような良い麦が多少犠牲になってもやむを得ないと考えています。このようにして世界から悪を排除することによって正義を実現することで、天国のような理想的な世界を実現する。それが、わたしたちが生きる世の中の常識です。自らの目に悪だと思える存在を見るや否や、正義のために徹底的に非難し、即座に切り捨て、排除する。そのような力が、この世の中には働いています。こうしてそれぞれの人が、自らにとって理想的な畑、すなわちそれぞれの天国を実現しようとしています。悪意があるわけではありません。僕たちもまた、主人のためを思って毒麦を排除しようとしました。しかしそれは事実上、自分たちにとって都合の悪い毒麦を排除し、彼らにとっての理想的な天国を実現しようとしたに過ぎません。それは、主人の思いからは遠く離れたものでした。
主人の思いは、一本たりとも、良い麦が滅びないことです。そのために毒麦は残されます。ゆえに主人も僕たちも収穫のときまで労苦し、悩み続けることになるでしょう。それでも、救われるべき者が一人でも滅びることを許容しない。それが聖書に示された神のご意志であり、十字架の上でわたしたちを救うために痛みを負われた、主イエスキリストのご意志です。この神の愛が実現するのが天の国なのです。
わたしたちは、この天の国の一員とされています。自らが痛みを負ってでも誰一人救いをあきらめないのが、天の国の一員とされたわたしたちの生き方です。わたしたちの目の前には、理不尽があります。今すぐにでも抜き去りたくなるような人は、たくさんいます。しかしそういった人々を排除し、思いが通じる人々だけで集まるところは天の国ではありません。終わりの日まで、わたしたちには良い麦と毒麦を判別することはできないからです。天の国の一員であるわたしたちは、御心に従う者とされています。ゆえにわたしたちは、誰一人良い麦が失われないために、労苦し、悩みぬくのです。周囲から毒麦だと思われている人々の救いを、決してあきらめないのです。それは簡単ではありません。それでもなお、救いの可能性を信じて悩み、労苦する。そのような場所こそが、主イエスのお示しになられた天の国です。

