2026年6月7日礼拝説教「御言葉を聞いて悟る人」

聖書箇所:マタイによる福音書13章18~23節

御言葉を聞いて悟る人

 

 13:1~9において、主イエスは種を蒔く人のたとえを大勢の群衆に向けて語られました。続く10~17節において弟子たちだけに、たとえを用いて話される理由を語られます。約束された救い主として主イエスを見、その言葉に聞く彼らを、預言者や正しい人たちよりも幸いだと主イエスは言われました。今ここに集められているわたしたちもまた、聖書の御言葉をとおして主イエスを見、その言葉を聞いています。そういった面でわたしたちもまた、主イエスの言われる幸いな者の一員です。そのうえで主イエスはこの幸いな弟子たちに、今日の箇所で種を蒔く人のたとえの意味を説明されます。救い主として主イエスを見、その言葉に聞く人々こそが、このたとえの説明を聞くのです。そこにわたしたちも含まれています。

 種を蒔く人のたとえの具体的な説明は19節から始まります。まずは道端に蒔かれたものについての説明です。大前提として、種蒔きは御国の言葉を聞くことを指しています。種を蒔く人は、御国の言葉を語られる主イエスです。そして種が蒔かれた土地は、それを受け取る一人一人を指しています。ここで登場する「人」という言葉は単数形です。御言葉を受け取った個人が意識されています。他でもないあなたは、御言葉を聞いてどう生きていくのか。主イエスは問うておられます。またこの19節では、今日の説明全体を貫くもう一つのテーマが示されています。「御国の言葉を聞いて悟らなければ」という点です。御言葉を聞いたことを前提とし、そのうえでそれを悟るかどうかが問われています。「悟る」とは、理解することを意味する言葉です。主イエスの言葉は、弟子たちだけでなく多くの人々が聞いていました。主イエスに反対した律法学者やファリサイ派の人々ですら、主イエスの言葉を聞いたのです。わたしたちの手元にも、御言葉としての聖書があります。この言葉をどう理解するかが重要です。適切に理解しなければ、この言葉は実りをもたらすことなく奪い去られてしまいます。続く20~22節で挙げられている土地に該当する人々は、問題のある御言葉理解の代表例です。この人々も御言葉を聞いています。しかしその理解が適切ではないのです。

 まずは石だらけの所にまかれたものです。この人は御言葉を聞いてすぐ喜んで受け入れますが、御言葉のために艱難や迫害がおこるとすぐにつまずいてしまいます。「すぐ」という言葉にこの人の特徴があります。熱しやすく冷めやすいのです。その問題点は、目の前のことだけに目が向いている点にあります。今の喜び、今直面している問題の解決。それをこの人は御言葉に求めています。しかし時として御言葉は、喜びではなく艱難を、解決ではなく迫害をもたらします。するとこの人は、すぐにつまずいてしまいます。この人にとって大切なのは、どこまでも今この時点での益だからです。

 次に22節にある、茨の中に蒔かれたものです。この人もまた、御言葉を聞きます。しかし世の思い煩いや富の誘惑が御言葉をふさいでしまいます。この人にとって、世の思い煩いの解消や富を増し加えることは、何よりも優先すべき人生の目的となっています。この人にとっての御言葉は、自らの目的を達成するための道具でしかありません。しかし御言葉は、人間の自己実現のための道具ではありません。ゆえにこの人に蒔かれた御言葉は、覆い隠されてしまいます。

 続く23節には、良い土地にまかれたものが取り上げられます。これは御言葉を聞いて悟る人です。するとあるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。結局のところ御言葉を聞いて悟るか否かが、実を結ぶか否かにつながっていきます。マタイ福音書における「実を結ぶ」という表現は、御言葉に基づく行動を意図しています。御言葉を適切に理解するとき、それは御言葉に従う行動を伴います。聖書の愛は動詞であるという言葉があります。この愛を示す御言葉もまた、動詞なのです。

 ところで良い土地に蒔かれたものは、艱難や迫害、思い煩いや誘惑があるなかで、なぜ御言葉に聞き従い続けることができたのでしょうか。その答えは、他の土地に落ちたものを反面教師とすることによって得られます。これらに蒔かれたものが示す人の目は、どこまでも自分自身に向けられています。彼らにとっての御言葉は、あくまで自らの願望を満たすためのものです。この人々にとって御言葉は、自己実現や自己肯定のための道具でしかありません。御言葉をそのように理解するとき、自らに益をもたらす存在や自らを脅かす存在が、御言葉よりも大きく見えてしまいます。結果、それらに人生を左右されるような不安定な生き方にならざるを得ません。それに対して良い土地に蒔かれたものの目は、自分自身ではなく罪人を救われる愛の神に向けられています。またあらゆる困難の先にある御国の完成に、彼らの目は向けられています。ここに自らの人生の目的を置くとき、艱難や迫害、思い煩いや誘惑を超えて、御言葉に聞き従うことができるのです。

 

 この歩みの先頭に立ってくださったのが、主イエスキリストであられます。このお方は、罪人の救いという神の御心を、十字架という艱難の先に見ておられました。だからこそ十字架の御苦しみを身に受けられてなお、父なる神の御心に従われました。わたしたちは今、このお方の言葉に聞いています。もはやわたしたちは、いたずらに自己実現や自己肯定を求める必要はありません。自己実現や自己肯定の言葉としてではなく、キリストに示された神の愛に目を向けるための言葉として、聖書に記された御言葉を理解し従ってまいろうではありませんか。そのとき大いなる実りが、わたしたちをとおしても結ばれます。そしてこの場所に、愛の神のご支配である御国が実現するのです。