聖書箇所:マタイによる福音書13章10~17節
幸いな目と幸いな耳
今日の箇所のキーワードは「たとえ」です。聖書に多くのたとえ話が記されています。そのなかには、皆様になじみ深いたとえ話もあろうかと思います。先週取り上げました種を蒔く人のたとえもそうでしょう。聖書においてたとえ話は、どちらかというと分かりやすい印象があります。しかし主イエスは、秘密を悟ることが許されていな人たちが理解しないために、主イエスはたとえを用いて語られました(11節、13節)。分かりやすさのためではなく、分かりにくさのためです。実際、多くの人々は主イエスの語られるたとえ話の意味を理解しません。結果として多くの人々は主イエスから離れ、最終的にはイエスを十字架につけろと要求する側に回ることとなります。
驚くべきことに主イエスは、自らの言葉を多くの人々が理解しないことを、イザヤ書の預言の実現として語られます。神のご計画に基づいてこの無理解が実現するために、わたしはたとえ話で人々に語るのだと弟子たちにお答えになられます。ここで引用されているのは、イザヤ書6章9~10節です。実際に神の言葉を語るべく遣わされたイザヤは、民からの激しい反発を受けることになります。それが十字架というより明確な形で、主イエスの身にも起こります。すべては神のご計画であり、神の御業の結果だと、主イエスは言われるのです。
ここでわたしたちはとまどいます。神が、人々に主イエスの言葉を拒否させたのか、と。マタイは決して、御言葉を拒否する人々の責任が神にあるなどと言おうとしているのではありません。マタイの意図はシンプルです。多くの人々が御言葉を拒否することも、神のご計画であるということです。それはあってはならないことではなく、また神にとって思いがけないことでもありません。いつの時代にも、起こるべくして起こることです。全知全能の神が治めておられるこの世界で、なぜ神の言葉である御言葉がこれほどまでに人々に受け入れられないのか。苦難の中にあればあるほど、それはわたしたち自身の疑問でもありましょう。この疑問の答えは、主イエスの引用されたイザヤ書にあります。預言者イザヤの語った神の言葉を、神の民であるはずの人々は拒否しました。それは彼の語る言葉が、民の求める言葉と違っていたからです。民は自らの願い求める言葉を求めました。しかし預言者イザヤの語る神の言葉は、それとは違っていました。ゆえに民はそれを拒否しました。それは律法学者やファリサイ派の人々が、主イエスの言葉を拒否した理由でもあります。同時に、今、目の前で主イエスの言葉に聞いている人々の多くが、このお方を拒否した理由でもあります。主イエスの言葉は、この人々にとっても望むものではありませんでした。
このようにして神の言葉を拒否した人々は、御言葉と無関係に過ごしている人々ではありません。イザヤを拒否した神の民も、律法学者やファリサイ派の人々も、今主イエスの前にいる人びとも、御言葉に親しんでいたはずの人々です。しかし彼らは、自らの望む言葉を求め、神の言葉を拒否しました。それにより、彼らが得ていたはずの御言葉までも取り上げられることとなります。持っていない人は、持っているものまでも取り上げられます。
これによってイザヤや主イエスの語られた御言葉が、人の望む人間の言葉ではないということが明らかとなります。もし人の願望をかなえる人間の言葉が人を救うならば、なぜ世にこれほどまでの不条理や理不尽があるのでしょうか。ここに集められ、御言葉に聞いているわたしたちは、このような世の現実と、それをもたらす人間の言葉に疑問を持った側の人間です。こうしてキリストの言葉を聞く人々に、このお方は16節と17節の言葉を語れました。ここで言及されている多くの預言者とは、困難な状況でも神の言葉を人々に語った偉人です。正しい人たちとは、神の言葉を重んじそれに従って生きた立派な人です。偉人や立派な人と呼ばれるような人々こそが誰よりも優遇され、多くの幸いを得るべきである。これがわたしたちの持つ常識であり、多くの人々に受け入れられている人間の言葉です。
しかし主イエスは言われます。あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。弟子たちが見ていたのはキリストであり、彼らが聞いていたのはキリストの語られる御言葉です。旧約時代の預言者や正しい人は、主イエスを見ることはできず、このお方の言葉に聞くことができませんでした。それができるあなたたちは、彼らよりも幸いだと主イエスは言われます。偉人や立派な人がイコール幸いな人ではありません。キリストに目を向け、このお方の言葉に耳を傾ける人こそが幸いなのです。
多くの人々は、いまだ神の言葉に聞きません。大半の人々は、自らの願望とは異なる神の言葉を拒否します。そのなかでわたしたちは、主イエスキリストというお方を救い主として見、この方の言葉に聞いています。偉人ではなく、立派でないならば人々から見捨てられ、不幸になるのではありません。キリストに目を向けて、このお方の言葉に聞くとき、どのような状況にあってもその人こそが幸いなのです。それがキリストの語られる神の言葉です。わたしたちは、世に名を残すような偉人でもなければ、世の中を変えるような成果を納める立派な人間でもありません。しかしそれでいいのです。なぜなら主イエスキリストに目を向け、このお方の言葉に聞く者を、主イエスは幸いだと言ってくださるからです。今わたしたちはこの礼拝の場において、聖書の言葉をとおして主イエスを見ています。聖書の言葉をとおして主イエスの言葉に聞いています。たとえわたしたち自身が立派でなくても、どれほど弱さがあろうとも、神はここに集うわたしたちを幸いだと言ってくださいます。この恵み深い御言葉と共に、世に出て行こうではありませんか。

