2026年5月10日礼拝説教「実を結ぶ種と結ばない種」

聖書箇所:マタイによる福音書13章1~9節

実を結ぶ種と結ばない種

 

 今日の御言葉は種を蒔く人のたとえです。直前の12章までで語られてきた律法学者やファリサイ派の人々との論争が終わりました。そしてこの章ではいくつかのたとえ話が語られます(3節)。最初に記されているのが、種を蒔く人のたとえです。有名で、なじみ深いたとえ話です。ある人が種まきに出て行きます。その際、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけで土の救いないところに落ち、ある種は茨の間に落ちます。それらは結局、実りをもたらすことはありませんでした。実りをもたらしたのは良い土地に落ちた種でした。あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実りをもたらしたのでした。

 このたとえ話の具体的な意味は18節以降で明かされます。ですから本日は一つ一つを詳細に説明することはいたしません。まずは最低限、種が御国の言葉を指しており、種が落ちた土地はその言葉を聞いた人を示していることを意識していただければ十分です。御言葉の種が、今まさに主イエスをとおして人々に蒔かれています。しかし、すべての種が実りをもたらすわけではありませんでした。今はちょうど、種まきや苗の植え付けの時期です。これらを育てるにあたってのポイントの一つに、土づくりがあります。種の成長具合は、土壌に大きく依存します。種を蒔いても、それに合わせて土地が自動的に変わることはありません。種を蒔く前に堆肥を混ぜ、肥料を入れ、よく耕しておくことが必要です。そうでなければ実りは期待できません。キリストが語られる御言葉にもそれが当てはまります。もちろん御言葉によって人が変えられる側面もあります。しかし一方的に御言葉を蒔くだけで、それらすべてが機械的に実りをもたらすわけではありません。御言葉を受け取る土壌が必要です。その土壌が整っていないがゆえに、語られた御言葉は実りをもたらすことなく終わってしまうのです。

 ところでこのたとえ話において、実りをもたらさなかった三つの土壌の特徴は何でしょうか。それらはこのパレスチナの地方において、手が加えられていない、ありのままの場所を指しています。そういった土地に種が蒔かれても、芽吹かないのです。神に変えられることのないありのままの人間に御言葉の種が蒔かれても、芽吹きません。御言葉が芽吹き、実を結ぶためには、そのために整えられることが必要です。それが整えられているのが、8節に記されている良い土地です。実りをもたらさなかった3つの土地と、それをもたらした良い土地の違いはまさにここにあります。決して、御言葉を受け入れる素直さや、真理を見分ける能力といった、人の側の能力による違いではありません。土地自身がひとりでに栄養を生み出して柔らかくなることはありません。耕され、整えられる必要があります。土地はどこまでも受け身です。その面で、良い土地がもたらした御言葉の実りは、その土地自身の能力や功績ではありません。どこまでもその環境を整えてくださった神の恵みによります。同時にこの神の恵みは、人が御言葉を受け入れ、新たな御言葉の実りをもたらすという、人の側の応答を伴うものなのです。

 ところで8節にある実りの順番は特徴があります。百倍、六十倍、三十倍と、だんだんと減っています。ここにマタイ福音書の意図があります。それは、本来は百倍の収穫をもたらす能力のある種が、六十倍、あるいは三十倍の実りで終わってしまったという側面です。本来は百倍の実りをもたらすべき種が、六十倍、三十倍の実りで終わってしまったのです。良い土地ならば、手放しで喜べるような状況ではありません。良い土地においても、本来得られるはずであった実りが失われています。これがマタイ福音書における、種を蒔く人のたとえ全体が伝えようとしていることです。道端に落ちた種が鳥に食べられる。石だらけの土地に落ちて枯れてしまう。茨がふさいでふさがれてしまう。そして良い土地に落ちたのに、本来の実りをもたらさない。失われる状況は様々です。いずれにしても語られた御言葉が、期待された実りをもたらすことなく失われています。

 主イエスの周りには大勢の群衆がいます。まさに今、主イエスは御言葉の種を蒔かれています。しかしすべてが十分な実りをもたらすわけではありません。それが世の現実です。種が良い土地に蒔かれたとしても、期待された収穫をもたらすことなく終わってしまうことがあります。それが、地上の教会の現実です。この御言葉を読むときには誰もが、自分はどの土地だろうと考えるのです。わたしたちは礼拝で主イエスの御言葉に聞いています。ですからおおむね自分も良い土地であると、心のどこかで思うのです。わたしたちのこの思いは、主イエスのもとに集まった大勢の群衆たちと共通しています。主イエスの言葉を全面的に拒否した律法学者やファリサイ派の人々に比べれば自分たちはマシであり、三十倍の実りをもたらす程度には良い土地である。そう自負していたと思うのです。しかしこのように他者を見下して自らに安心を求めるところでこそ、本来得られるはずであった御言葉の実りは失われていきます。それでもなおキリストは、熱心に御言葉の種を蒔かれ続けられます。そして神は頑ななわたしたちを耕してくださり、御言葉を受け入れることができるように整えてくださいます。この神に、わたしたしたちは仕えているのだということを、改めて今日、覚えてまいりましょう。わたしたちがどれほど熱心に御言葉を語り、努力をしようとも、語られた御言葉が芽吹くことなく失われていくことがあります。これは世の現実です。しかしそれに絶望するのではなく、あるいは実りをもたらさない土地を軽蔑するのでもなく、少しでも多くの収穫を求めて共に神に仕え、隣人を愛してまいりましょう。