2026年4月26日礼拝説教「大いなる救いのために」

聖書箇所:創世記45章1~15節

大いなる救いのために

 

 兄弟たちの妬みによって、ヨセフはエジプトに売られました。現代のように携帯電話やインターネットがあるような時代ではありません。エジプトに売った時点で、ヨセフと再会する可能性はほぼありません。この点で兄弟たちにとっても父にとっても、もはやヨセフは死んだも同然でした。そのヨセフが、兄弟たちと再び家族として出会います。とはいえヨセフと兄弟たちは、すでに再会を果たしていました。しかし前章まで彼らが家族として接することはありませんでした。ヨセフが兄たちを警戒し、彼らを信じることができなかったからです。兄たちもまた、自分がかつて弟をエジプトに売り、殺したも同然のことをしてしまった罪に苦しみ続けていました。この一家は、神の救いの御業のために特別に選ばれた家族です。それにもかかわらずこの家族は、皆それぞれに欠けがあり、痛みと重荷を抱えていました。それが時代を超えて家族関係という関係の現実であるように思います。

 この状況を変えるきっかけとなったのが、前章のユダの嘆願でした。それを聞いたヨセフの反応が、今日の箇所の冒頭に記されています。もはや彼は、平静を保つことができませんでした。そしてついに兄弟たちに自らの正体を明かします(3節)。兄弟たちは驚きのあまり、言葉も出ません。当然でしょう。その兄弟たちに対して、ヨセフは4節で改めて自らを、わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフだと伝えます。兄たちからすれば、死んだはずのヨセフが生き返ったようなものです。しかし兄たちは、かつてヨセフをエジプトに売るという罪を犯しています。弟ヨセフは自分たちを恨み、復讐すると考えるのが普通です。それができるほどの高い地位に、ヨセフはあります。しかしそこでヨセフから語られたのは、5節の赦しの言葉でした。兄弟たちにとっては、この赦しの言葉によって初めてヨセフとの再会が感動的な喜びの出来事となったのです。兄たちだけでなく、この言葉を契機としてヨセフ自身も兄たちへの恐れや不信感から解放されています。もはや自らの思いを隠して策略をめぐらす必要もなくなりました。彼自身もまた自らの罪の重荷から解放されています。

 このような素晴らしき罪の赦しとその重荷からの解放は、決してヨセフの一方的な善意によるものではありません。赦しと解放の根拠は、5節後半から8節まで語られる神の救いのご計画にあります。自分たちが行い、また験してきたことは全て神の救いのご計画のために用いられてきたとヨセフは語ります。とはいえ、兄たちもヨセフも、神に行動を強制されたわけではありません。彼らは自由に行動して罪を犯し、犯されてきました。そして自由に敵意を向け、敵意を向けられてきました。それ故に、それぞれに悩み苦しんできました。しかし同時にそれら全てが神の導きの中にあったのです。だからこそそれぞれに苦しんできた彼らの人生に、神の救いの御業という積極的な意味を見出すことができました。その理解のなかでこれまでの歩みを振り返るとき、罪の赦しと解放が実現するのです。

 このことは、キリストの十字架と復活による罪の赦しの御業にもあてはまります。キリストを十字架につけた兵士も、その原因となる罪を犯したわたしたちも、神に強制されてではなく自らの意思でそれをしたのです。その後このお方が復活されました。キリストは、罪を犯したわたしたちを断罪され滅ぼされる力も権威もお持ちです。しかし復活されたキリストによって明らかとなったのは、神の救いの御計画と罪の赦しでした。わたしたちの罪のゆえになされたキリストの十字架の死が、同時に神の赦しと救いの御業であったのです。この十字架を見上げるときに、わたしたちは本当の意味で罪赦され、その重荷から解放されることができるのです。

 さて8節までにおいて、神の救いの御計画が示され、家族の感動的な再開が果たされました。その後ヨセフは、自らが生きていることを父に知らせてほしいと願いました。故郷には、未だヨセフが死んだまま苦しんでいる父ヤコブがいます。その父に、この喜びの知らせを届けてほしい。それがヨセフの願いでした。神の御計画によって実現した罪の赦しと解放が、今度は父ヤコブへと広がっていくのです。そしてこの家族の破れが、神の御業によって癒されていきます。

 

 この偉大なる神の救いの御計画に、これまでのこの家族のあらゆる行動が用いられました。その中心にあるのは、弟をエジプトに売るという、信仰的とはほどとおい人の欠けと罪、それに伴う痛みです。しかしそれらすべてが、神のご計画の中に置かれている。この人生理解によって、神の救いの御業は見出されたのです。人のあらゆる行動の背景に、罪に、悩みに、痛みに、それでもなお救いのための神の御業があるのです。わたしたちの人生にも、様々な痛みがあります。わたしたち自身もまた罪を犯します。それゆえに苦しみます。誰かに悪意を向けられて、理不尽な仕打ちを受けることもあるでしょう。大切なことは、それらもまた神のご計画と御業の中に位置づけることです。いつかそれが示される日を、待ち続けることです。罪、悪意、悩み、痛み。これらは、神の御業によって消えてなくなり、綺麗に解決するのではありません。そういったものもまた、神は御自身の救いの御業のために用いられるのです。わたしたちは、この神のご計画の途上にあります。途上ですから、いまだに神のご計画を理解できないことが多々あります。納得できず、赦せないこともあるでしょう。しかしそれでもなお、それらをも用いて御業をなしてくださる神がおられます。この神の御業をあきらめることなく、希望を見つめ続けましょう。そのなかで、悩み多きこの世を神のご計画のなかで歩みゆこうではありませんか。