2026年4月19日礼拝説教「主イエスの兄弟姉妹」

 

聖書箇所:マタイによる福音書12章46~50節

主イエスの兄弟姉妹

 

 皆さんにとって家族とはどのような存在でしょうか。家族は自分自身を形作る関係です。また家族は、支え合う関係でもあります。それは一見美しい関係のように見えます。けれども、きれいな面だけでは済みません。家族関係には、泥臭く、悩みが深い一面もあります。最近「機能不全家族」という言葉を耳にするようになったことにも、そのことが表れています。対して、正常に機能している家族とは何か議論されることは少ないように思います。人々の間でなんとなく共有されている理想的な家族のイメージがあります。そのような家族観が、家族はこうあらねばならないというプレッシャーを生んでいる面があるように感じるのです。そう言ったものを超えて、わたしたちは主イエスから家族の姿を改めて学びたいのです。

 これまで律法学者やファリサイ派の人々と主イエスとの論争が記されてきました。今日の箇所は、その一連のお話しのまとめに位置しています。主イエスがなおも群衆に話しておられるとき、主イエスの母と兄弟たちが話したいことがあって外に立っていました。それを見たある人が、そのことを主イエスに知らせます(47節)。ここには、家族の話は何をおいても最優先で対応すべきであるというこの当時の家族観がよく表れています。この家族観は、現代でもそれほど違和感がないと思います。家族のことは、最優先にすべきである。そのような家族観が、この人の発言の背景にあります。

 それに対して主イエスは、その人に問われます。わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。これはキリスト者にとって非常に重要な問いです。主イエスが「わたしの母」「わたしの兄弟」と言われているのは、主イエスと特別近く深い関係に置かれている人です。「推しの子」という漫画をご存じでしょうか。ファンのアイドルの子供に生まれ変わるところから、物語が始まります。こうして大好きなアイドルの家族として、多くのファンよりも深く特別な愛情を受けることができます。アイドルの家族は、ファンにとっては憧れの存在です。そう考えますと、主イエスキリストの母や兄弟が、キリスト者にとって特別であることは分かると思うのです。それはこのお方の愛を、近くで一心に受けることのできる特別な存在です。

 実際に今、主イエスのところに肉親が来ています。彼らは、自分たちこそが優先して話すことができると思っています。周囲の人々もそれが当然だと理解しています。しかし主イエスは、弟子たちを指して言われました。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

主イエスと弟子たちの物理的な距離がこの関係の根拠ではありません。主イエスの天の父の御心を行う人が、このお方の兄弟、姉妹、また母なのです。場所を超えて、時代を超えて、父なる神の御心を行う者ならばこのお方の兄弟、姉妹、母なのです。そのような人々は、わたしの肉親よりも特別な存在であると主イエスは宣言されます。アイドルの子供として生まれる推しの子以上のことが、ここで起こっています。

 この主イエスの言葉が、律法学者やファリサイ派の人々との論争のまとめであることが重要な意味を持ちます。父なる神の御心を行うこと。これを誰よりも自らの誇りとしていたのは、律法学者とファリサイ派の人々です。彼らは、自分たちこそが誰にも勝って父なる神の御心を行っていると自負していました。しかし皮肉にも、主イエスの兄弟、姉妹、母に、この人々は含まれていません。今日の箇所を読むときに、わたしたちは自ずと主イエスの兄弟、姉妹、母ではない人々の姿を想像すると思うのです。それはおそらく、行動を起こさない怠惰な人でしょう。しかし主イエスがここで特に意図しておられるのは、怠惰な人よりも、父なる神の御心から外れた行動を起こす人々です。わたしたちは何かしら行動しながら生きています。主イエスの肉親たちも、行動を起こして主イエスの所に来ました。律法学者やファリサイ派の人々も、神に従うべく他の誰よりも多くの行動を起こしました。しかしその行動が、はたして父なる神の御心に沿うものとなっているかが問われています。どこにその分かれ目があるのでしょうか。それは神の御子イエスキリストの言葉に聞いているかどうかです。律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスが語られるこの場所にはいません。主イエスと話に来た彼の肉親たちが立っているのは、主イエスが言葉を語っておられる場所の中ではなく、その外です。彼らは自分の語りたいことを言うために来ました。このお方の言葉を聞くためではありません。だからこそ主イエスは、ご自身の言葉が聞こえるところにいる人びとに語られます。ここにわたしの兄弟、姉妹、母がいると。まずわたしが語る父なる神の言葉に聞き、それを行う者こそが、わたしと特別な愛の関係で結ばれる家族なのだと。

 

 御心に従ってこの礼拝の場に集い、聖書に示された主イエスキリストの言葉に聞き従うわたしたちもまた、主イエスの兄弟、姉妹、母とされています。だからこそわたしたちは、互いに兄弟姉妹と呼び合うのです。その真ん中に、わたしたちのために命を投げ出して愛してくださった主イエスキリストがおられます。ここに、互いに愛し合う家族の姿があります。それは単なる家族の理想像ではありません。御言葉に聞き、この言葉に共に従うこの場所に、主イエスキリストの家族は現実に存在するのです。立派でなくてもいいのです。弱さがあってもいいのです。反りが合わなくてもいいのです。むしろそのような見栄えのしない人々がなおも主イエスの言葉に聞き、それに従うところにこそ神の家族は形作られます。わたしたちもまた御言葉に聞き従う神の家族として、共に世へと歩み出して行こうではありませんか。