聖書箇所:ヨハネによる福音書20章24~31節
信じて命を受けるために
主イエスの復活の喜びを、特に今日皆様と共に、そして浜松教会に加えられた兄弟姉妹と共に迎えることができました。主に心から感謝いたします。キリストの十字架の死と復活を信じる仲間が加えられることは、それ自体奇跡的なことです。それほど十字架と復活を信じることは困難です。その一例がトマスです。彼は主イエスの十二人の弟子の一人です。そのトマスですら、最初は主の復活を信じることはできませんでした。25節にある「決して信じない」は否定の強調です。それほどまでに信じられなかったトマスも、最後には主の復活を信じ、このお方を「わたしの主、わたしの神よ」と言うまでになります。信じない者が、信じる者に変えられたのです。ここに集うわたしたちもまた、最初から主の復活を信じることができていたわけではありません。クリスチャンホームで育った方も例外なく、当初は信じない者でした。かつては皆が、トマスであったのです。そのわたしたちが信じる者に変えられて、今ここに集っています。その変化はどのように起こったのかを、今日の御言葉から教えられたいと願っています。
さて、トマス以外の弟子たちに復活の主イエスが表れた様子は、19節から記されています。それは週の初めの日、すなわち日曜日でした。日曜日に主の弟子たちが集まり、その真ん中に主イエスが現れる。この記載は、主日の礼拝が意識されています。しかしその場にトマスはいませんでした。主イエスが去られた後、トマスがやってきます。すると彼以外の弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と証言しますが、彼は信じようとしませんでした。彼からすると、自分だけには主との出会いが与えられていないのです。なぜ、自分だけが与えられていないのかと思うのは当然です。同じような経験をされた方は、少なくないと思うのです。兄弟姉妹は主を喜んでいるのに、自分だけは喜びがない。なぜ自分だけが。なぜ自分ではない兄弟姉妹ばかりが。こういった思いが、トマスの「決して信じない」という発言につながっています。
そのトマスに対する、他の弟子たちの対応は記されていません。誰もトマスを叱ったり責めたりしていないのです。何とかトマスが主イエスの復活を信じることができるよう、自らが主イエスを見たことを伝えたことでしょう。こうして八日が経ちます。この当時の日数の数え方は当日も含みますから、これは次の日曜日の出来事です。弟子たちはまた共に集いました。今度はトマスも一緒です。そこに主イエスは来てくださり、真ん中に立たれました。そして一週間前と同じように、平和の挨拶をされます。この日主イエスがその場に現れてくださったのは、信じることのできないトマスのためです。主イエスはトマスに語りかけられます(27節)。ここで主イエスが語られたのは、信じられないことに対する叱責ではありませんでした。トマスが信じることができるよう、主イエスは彼に語りかけられました。こうしてトマスは復活の主イエスを信じる者へと変えられました。「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、単に主イエスの復活を信じたことには留まりません。このお方が自らの主人であり、自らを救ってくださる神であると、彼は信じました。「決して信じない」と言った一週間前のトマスは、こうして信仰者へと変えられました。トマスを信じる者へと変えたのは何でしょうか。彼は決して、自分のつけた条件を主イエスがクリアしたから信じたのではありません。彼が見たのは、特別頑な自分にすら目をかけてくださるキリストです。その姿を見たからこそ、彼は信じる者へと変えられました。
さて主イエスは、信じたトマスに対して29節の言葉を語られます。仮にトマスが見ないのに信じる人であったならば、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」という言葉を聞いたときに彼は信じていたことでしょう。トマスにはそれができませんでした。しかし彼に限らず十二人の弟子たちは皆、復活の主イエスを直接見て信じた人々です。そのうえで主イエスは、見ないのに信じる者は幸いであると言われます。この言葉は、この書を読むわたしたち一人一人に向けられた言葉として理解すべきでしょう。それはこのお話しに30~31節の言葉が続いていることからも明らかです。
思えば、主イエスを見ることができた時代など、歴史全体のなかでもごくわずかです。しかしその後の時代にも、主イエスを見ることなく復活の主を信じる人々が起こされてきました。わたしたちも皆、そうなのです。だからこそ、キリスト教は今も続いています。では、どのようにして復活の主イエスを見ることなく信じたのでしょうか。わたしたちに先立って主の復活を信じた人々が、わたしたちに主を信じてほしいと願いながら「わたしは主に出会った」という証言をし続けてくれたからです。この書物もまたそのために書かれています。この書物は、直接にはヨハネ福音書を指しますが、聖書全体の目的と理解しても良いでしょう。主を見るこのできない後の人々に、それでも復活の主イエスキリストを信じて命を得てほしい。そう願いながら書かれたのが、この聖書という書物です。この証しの言葉をとおして、わたしたちはまさに目で見ることなく、しかしキリストと出会って、復活の主を信じたのです。
そして今度はわたしたちが、証しする番です。わたしたちの罪を担って死なれた主イエスキリストは、今日のこのイースターに確かに復活されました。そして聖書の御言葉をとおして、確かにわたしたちに出会ってくださいました。この喜びと共に、主の復活を証しする者として歩みだそうではありませんか。あなたにも復活のキリストを信じてほしい。わたしたちのこの思いをとおして、神は信じない者を信じる者へと変えてくださるのです。

