聖書箇所:ヨハネによる福音書19章23~27節
苦難の十字架が結んだ絆
キリスト教と言えば、十字架です。キリストがわたしたちのために十字架にかかって死んでくださり、三日目に復活された。この受難とイースターの復活の出来事が、キリスト教の教えの中心であり確信です。わたしたちは死んだら終わりという常識のなかで生きていますから、人々が死者の復活を信じることは難しい面があります。一方で、キリストが十字架にかかられた事実そのものを否定する方はほとんどいません。しかし約2000年前の十字架の出来事が、今を生きる私のためになされたものであったと信じることがまた難しいのです。キリストの十字架と今を生きるわたしに、いったいどのような関係があるのかを、今日この御言葉から教えられたいのです。
主イエスを十字架刑に処すことを求めたのはユダヤ人たちでした。そしてその判決を下したのは、ローマ帝国の総督ピラトでした。この判決の後にピラトは、ユダヤ人たちに主イエスを引き渡しました。ただ、実際に主イエスを十字架につける役を担ったのは、4人の兵士たちでした。十字架刑は、当時のローマ帝国における残忍な死刑の方法です。その残忍さは、死ねないまま苦しむ時間が長く続く点にあります。18節において、主イエスは十字架にかけられます。そこから、死ぬに死ねない苦難の時間が30節まで続きます。今日の場面もまた、この十字架につけられてから息を引き取られるまでの苦しみの苦難の時間に起こった出来事です。この時間に兵士たちが始めたことは、主イエスの服を分け合うことでした。彼らにとって主イエスは、単なる一人の死刑囚に過ぎません。死刑囚とは通常、死ぬことを望まれるほどに社会的に見て価値のないとみなされた存在です。彼らから見た主イエスは、服ぐらいしか価値がないのです。ゆえに彼らはそれを自らの分け前として求めました。主イエスの服は兵士の人数分の4つに分けることができました。一方下着は、分けることはできませんでした。それゆえに兵士たちは、くじをひいて誰が下着を得るのかを決めたのでした。意図せず行われた彼らのこの行動が、旧約聖書の預言の成就となりました。それは詩編22:19に記されています。主イエスの十字架によって、旧約聖書の言葉が実現しました。ここにも、十字架の主イエスが昔から神によって約束された救い主であることの印が示されたのでした。
主イエスの十字架のそばにいたのは、兵士たちだけではありませんでした。彼の母とその姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアがいました。この人々は、服しか目に入らない兵士たちとは違い、十字架につけられた主イエス御自身を見ていました。彼女たちは大きな悲しみと痛みの中にありました。特に母マリアはそうでしょう。自らがお腹を痛めて産んだ息子が、目の前で十字架につけられ、苦しみもだえ、死につつある。想像を絶する状況です。一方主イエスは十字架で苦しみながらも、この人々をご覧になられました。そして言われた言葉が26節と27節に記されています。
今日のこの箇所において、二つの人間関係を見ることができます。4人の兵士たちの人間関係と主イエスの母を含めた主イエスの弟子たちの人間関係です。兵士たちはただひたすらに、自らの目に価値あるものを求めています。分けられない下着を前にしたとき、彼らはくじを引き始めます。他の仲間が得られなかったとしても、自分がそれを得ることを望んでいます。それが4人の兵士たちの人間関係です。それが、キリストの十字架には目もくれない人々の生きる姿です。対してキリストの十字架を見つめていた人々はどうでしょうか。彼らの心にあったのは悲しみと嘆きでした。しかしその人々に、十字架の主イエスは声をかけられます。
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」
この言葉に従って、この弟子は主イエスの母を自分の家に引き取りました。簡単に書いてありますが、実際に行うのは簡単ではありません。例えば介護です。福祉が充実した現代においてすら、それがどれほど大変かは体験された方ならば分かると思うのです。お金や時間など、様々なものを犠牲にしなければなりません。報酬もありませんし、称賛されるわけでもありません。それでも十字架の主イエスの言葉に聞いた弟子は、それをしたのです。
共に主イエスを見上げる兄弟姉妹のために、このような損ができる。それがキリストの十字架によって結ばれる人間関係であり絆です。キリストの十字架によって結ばれた人間関係とは、互いに損ができる関係です。自分が兄弟姉妹のために損ができる。そして兄弟姉妹は、自らの損得を超えて自分を愛してくれる。それがキリストの十字架が結んでくださった絆です。そしてその絆で結ばれる場所が教会です。その中心に、わたしたちのために十字架におかかりくださり、命を失うほどの損をしてわたしたちを愛してくださるキリストがおられます。主イエスの下着を取り合う兵士たちの人間関係は、これとは真逆です。それは他者に損を押し付けてでも、自らの利益を最大化する関係です。このような兵士たちの関係のなかに、わたしたちは普段身を置いています。だからこそ主を礼拝するこの日曜日、しかも受難週であるこの主日に、主イエスキリストの十字架の前でその荷をおろそうではありませんか。互いに損をいとわず愛し合うことが、キリストの十字架の前に立つわたしたち兄弟姉妹にはできるのです。ここにおいて、キリストの十字架と今を生きるわたしたちは確かにつながっています。報酬や称賛の有無にかかわらず、損をいとわず、キリストの十字架の前に立つわたしたちは互いに愛し合うことができるのです。このこの上ないキリストの十字架の愛に力を与えられて、イースターへと向かうこの一週間を共に歩みだしていこうではありませんか。

