2026年3月15日礼拝説教「ヨセフの策略」

聖書箇所:創世記44章1~34節

ヨセフの策略

 

 直前の43章は、和やかなヨセフと彼の兄弟たちの酒宴の場面で終わりました。この酒宴の前、ヨセフの家に連れてこられた兄弟たちは非常に恐れていました。しかし44章に入りますと、その雰囲気は一変します。44章の最初でヨセフが執事に命じたことは、兄弟たちの知らないところで行われました。次の朝、一行は見送りを受け、ろばと共に出発しました。彼らの袋は食糧で満ちていました。彼らは目的を果たし、喜びと安堵のうちに帰途につきました。しかし彼らが町を出て間もないうちに、ヨセフは4~5節の言葉で執事に命じます。執事がそのとおり兄弟たちに伝えると、彼らも7~9節で答えます。この発言は、自分たちが無実であることの自信の表れでしょう。それに対して執事は、杯が見つかればその者だけが奴隷となると答えます。この発言も、ヨセフの意向をふまえたものでしょう。こうして荷物の確認が始まります。するとベニヤミンの袋の中から杯が見つかります。彼らは衣を引き裂き、絶望と失意のうちに町へ引き返すこととなりました。ヨセフが兄弟たちを陥れたのは、兄たちに対するヨセフの不信感があったからです。彼らはかつてヨセフをエジプトに売りました。その不信感は、簡単に拭えるものではありません。ただしヨセフは兄たちに嫌がらせをしたかったのではありません。明確な目的があります。それは最愛のベニヤミンだけを、自分の許に留まらせることです。それはヨセフの屋敷に戻った兄弟たち、特にユダとヨセフの14~17節のやり取りを見れば明らかです。

ここでユダは、16節で「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と言っています。ユダの心のなかにあったのは、銀の杯のことだけではありません。ヨセフをエジプトに売ったことを始めとして、自らが行ってきた様々な罪を思い浮かべていたはずです。その多くの罪を神が暴かれた。それがユダの認識でした。ゆえにベニヤミンだけでなく全員が奴隷になると申し出ます。ヨセフはそれを拒否します。ベニヤミンだけを手元に置いておくことを望んだからです。もしヨセフの望んだとおりの結果となっていたならば、兄弟全員と両親がヨセフにひれ伏すという神のご計画は実現しなかったはずです。この場面におけるヨセフは、神のご計画の実現を阻む方向で策略をめぐらします。ここでのヨセフは、神のご計画よりも自らの望みを実現すべく邁進しました。これまでヨセフは、大いに神に用いられてきました。けれども彼もまた、神よりも自らを優先する者の一人です。そしてこのヨセフの力に、兄弟たちは面と向かって抗う力はありません。

それでもなお必死に食い下がったのがユダでした。絶望的な状況の中でなお、危険を犯してヨセフに嘆願しました。ユダによる必死の嘆願の言葉が、18節以降34章の終わりまで続いていきます。この長い嘆願の言葉のうち31節までは、ユダの視点から見た父とのやり取りが説明されています。父がいかにベニヤミンを思っており、ベニヤミンと離れることは父にとって死ぬほどに辛いこと。このままベニヤミンが帰らなかった場合の父の苦悩の大きさ。これらを必死に訴えます。常識的に考えれば、このようなことを話してもエジプトの高官が聞き入れることはまずありません。それでもなお、彼はそれを訴えたのでした。そしてこの嘆願の結論が32~34節です。最後にユダが訴えたのは、父に襲いかかる苦悶を見るに忍びない、ということでした。そのために、自らがベニヤミンの身代わりとなって奴隷となると提案します。本来彼は、安心して父のもとへ帰ることができたのです。父は嘆くでしょうが、エジプトで奴隷になるよりは状況ははるかによいのです。しかし彼は自分だけがエジプトに残り、他の者を故郷に帰すようヨセフに願い出ました。それはかつてヨセフをエジプトに売ったのとは真逆です。その動機は、父の痛みを共にする彼の思いでした。

 父の痛みを共にするこのユダの思いが、次の章でヨセフの心を動かすことになります。ユダの思いと行動が、神のご計画の実現に用いられました。このような痛みを共にする思いから、神の民を救い出す神のご計画は実現していくのです。この嘆願をしたのがユダであったということにも、大きな意味があります。このユダの子孫から主イエスキリストがお生まれになられます。このお方は、わたしたちの痛みを担って十字架におかかりくださいました。今日の箇所でユダは、父の苦悶を見るに忍びないと言い、自らが代わりに奴隷になって兄弟たちが解放されることを願い出ました。このユダの思いと行動が、キリストの十字架へとつながっていきます。ユダの思いと行動が神のご計画の実現へと用いられたように、キリストの思いと行動が神の救いの御計画の実現へと用いられたのです。こうしてわたしたちは、絶望的な状況のなかで苦悶して死んでいくしかない状況から救われたのです。

 今日の箇所で神が用いられたのは、ヨセフではなくユダでした。ヨセフは圧倒的な権力をもち、信仰面での実績もあります。それでも今日の箇所で神が用いられたのは、ユダなのです。彼は自らの罪に苦悩する兄弟の一人にすぎません。それでもなお、父の苦悶を自らのこととし、その痛みを身に受けようとしました。その彼を、ここで神は用いられたのです。わたしたちもまた多くの罪を犯しています。ヨセフのような立派な信仰はありません。わたしたちは明らかにユダに近いのです。そのような者が、なお誰かの痛みを覚え、誰かの苦悶を見るに忍びないとの思いを共にすることをとおして、神のご計画とキリストの十字架による救いは、実現していくのです。

 わたしたち自身にも周りにも、痛みや苦悶があふれています。自らが痛みを負いながらも、誰かの痛みを共にする。そのところから、神は御自身の救いの御計画を実現してくださるのです。