聖書箇所:マタイによる福音書12章33~37節
言葉を語る責任
今日の箇所は、律法学者やファリサイ派の人々との論争のなかで語られた主イエスの言葉です。ゆえにこの言葉は、大前提として律法学者やファリサイ派の人々に向けて語られた言葉です。しかしそれはわたしたちとは全く異なる特別悪い人々への批判ではありません。わたしたちの中にも、律法学者やファリサイ派の人々と共通の思いがあるのです。
今日の箇所は、木と実の関係性についての主イエスの言葉から始まります。主イエスは、34節ですぐにその意味を明らかにしておられます。同じようなたとえは、すでにマタイ7:16以下で語られています。この箇所で実とは、各々の人がなす業を指していました。それに対して今日の箇所における実とは、各々の人が語る「言葉」を指しています。語る言葉の大切さは、時代を超えて万国共通の真理でありましょう。主イエスもまた、それを強調されます。キリスト教は、言葉の宗教と言われることもあります。聖書の神が信頼できるのは、このお方の語られる言葉が真実であり、この言葉に人を救う力があるからです。語られた言葉が、それを語った存在を表します。それは人の場合にも当てはまります。語られた言葉が、その言葉を語った存在の良し悪しを表します。この点を主イエスは、35節でもう一つのたとえを用いて語っておられます。倉庫の中から取り出せるのは、倉庫に入っているものだけです。悪いものが収納されている倉から良いものが出てくることはありません。倉とは各々の人の心、ひいてはその人自身を指します。そして倉から取り出したものとは、その人の語った言葉です。それぞれの人が倉から出してきたもの(語られた言葉)が、その人自身の良し悪しを表すのです。このように、35節のたとえもまた、33節の実と木のたとえと同じ真理を示しています。主イエスがいかに「語られた言葉」を重要視されているかが、ここから読み取れます。
ところで、ここで語られている良し悪しとは何でしょうか。冒頭申しましたとおり、今日の箇所は大前提として律法学者やファリサイ派の人々に対して語られたものです。彼らは品位に欠けた汚い言葉遣いをしていたわけでもなければ、神を無視してこの世のことばかりを語っていたわけでもありません。むしろ彼らは誰よりも、神の律法のことを口にしていました。しかしその彼らを、主イエスは「蝮の子らよ」と語ります。あなたたちは悪い人間であり、良いことを言えるはずがないと指摘されます。その理由は、直前の箇所からの流れを踏まえれば分かります。彼らは、約束の救い主を悪霊の頭の力をふるう者と主張します。彼らは主イエスを批判するために、救われた人の救いをも否定する言葉を語っています。彼らの言葉は、救いを否定し、人を裁き、滅ぼす力を持っています。彼らの見た目がいくら立派であっても、彼らは救いをもたらす神の子らではなく、滅びをもたらす蝮の子らです。
しかしなぜ彼らは、人を滅ぼす言葉を語るのでしょうか。彼らが語った言葉はすべて、自らの正しさを守るためでした。自らを守ろうとするとき、人は誰かを犠牲にしないではいられないのです。律法学者やファリサイ派の人々だけではありません。わたしたちもそうなのです。人に人を救う力はありません。主イエスの語られる神の言葉にこそ、人を救う力があります。それを信じる者こそが、救いをもたらす良い言葉を語ることができるのです。わたしたちが問われているのは、神の言葉への信頼です。神の言葉を信頼し、人を救われる神の御心をもたらす言葉を語るのか。それとも自らを守るために、神の救いを妨げる言葉を語るのか。ここに主イエスの言われる良し悪しが、そして語る者自身の良し悪しがかかっています。
そのうえで、主イエスは36~37節の言葉を続けられます。ここで主イエスが指摘されるのは、つまらない言葉についてです。誰かを救うわけでもなければ、滅ぼすわけでもない。そのような力を持たないように見える言葉を語ることですら、裁きの日には責任を問われます。中間的な言葉はありません。つまらない言葉であっても、人が語った言葉すべてについて、裁きの日には責任を問われます。わたしたちが想像するよりもはるかに厳密な基準で、神はわたしたちの語る言葉を見ておられます。わたしたちも皆、自分の言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされるのです。その言葉の基準は、品位があるか否かではありません。信仰的な言葉か否かでもありません。人を救いへと導く言葉か否かです。
ならばわたしたちはもはや、何も語らない方がよいのでしょうか。そうではありません。今日の御言葉を聞いて、もし語ることをやめようとするならば、そこにある動機はなんでしょうか。それは、自らを守ろうとする思いではないでしょうか。そのような思いのなかで語るわたしたちの言葉は、どのみち主の御心に適うものにはなりません。わたしたちはむしろ、語ることへと招かれています。神の言葉を信じて、そこにある救いの力を信じて、その言葉を語り、宣べ伝えていく。それこそが、わたしたちがよい言葉を語る唯一の道です。もちろんわたしたちは完ぺきではありません。つたない言葉を語らざるを得ないときもあります。しかし神の言葉の力を信じて語るとき、そういったつたない不完全な言葉もまた、良き言葉として救いのために用いられていくのです。わたしたち自身が、神の御心に適う良い者へと整えられていくのです。もはやわたしたちは、自らを守るために言葉を積み重ねる必要はないのです。神の言葉にこそ、その力があるからです。人を救う神の言葉の力を信じて、そしてそこで示されたキリストの十字架の恵みを信じる信仰者として、この世界に神の救いの御言葉を宣べ伝えてまいろうではありませんか。

