聖書箇所:創世記43章15~34節
恐れと楽しみのはざまで
ヨセフの兄たちが、末の弟ベニヤミンを連れて再びエジプトへ下っていく場面です。末の弟ベニヤミンは、兄弟の中で唯一ヨセフと同じ母ラケルから生まれた兄弟です。ゆえにヨセフは、兄弟たちのなかでもベニヤミンへの思いをひときわ強く持っています。一方で、かつて自らをエジプトに売った兄たちを、ヨセフはまだ信頼できずにいました。ゆえに自らの身分を明かしません。ヨセフからの命令を受けて一度帰った兄たちは、渋る父を何とか説得し、ベニヤミンと共に再びエジプトへと向かったのでした。ここからが今日のお話になります。
エジプトについた一行がヨセフの前に進み出ます。ヨセフは彼らがベニヤミンを連れてきたのを見ると、昼食を共にするために彼らを自らの屋敷に連れて行くよう執事に命じました。執事に案内された一同は、非常に恐れます。自分たちがひどい目にあい、奴隷にされると彼らは思いました。彼らがそう考える根拠もありました。彼らが最初にエジプトに訪問して帰った際に、支払ったはずの銀が袋に返されていたからです。恐れた彼らは、自らを屋敷に連れて来た執事に事情を話します。それに対して執事は23節で、安心するように伝えます。食料の対価としての銀は確かに支払われていることを執事は証言し、人質となっていたシメオンも解放されました。彼らは安堵したことでしょう。同時に執事の言葉から、その背後にある神の導きがほのめかされています。
さて、26節でヨセフが帰宅します。一同は地にひれ伏してヨセフを排します。かつてヨセフの夢に示された神のご計画が意識されています。十人の兄弟だけがヨセフにひれ伏した一回目の訪問に続き、今回はベニヤミンを含む十一人の兄弟たちがヨセフにひれ伏します。まだ両親はいませんでしたが、神のご計画の実現に向けて一歩前進したことが分かります。執事の言葉にも示された神のご支配により、神のご計画への実現へと向かっています。ヨセフはこの場において改めてベニヤミンを見つめます。このときのヨセフとベニヤミンには、大きな身分差があります。この関係におけるヨセフからの「わたしの子よ」という呼びかけは、最大限の親しみが込められています。呼びかけたヨセフ自身、弟懐かしさに胸が熱くなり、涙がこぼれそうになりました。この言葉は、ホセア書11章8節で神が民に対して向ける強い憐れみを表現する言葉でもあります。非常に強い感情を、ヨセフはベニヤミンに持っています。ゆえに彼は一時席を外します。感情的になりながらも、彼は兄弟たちのまえであくまで平静を装うのでした。
32節からは食事の場面になります。食事は、兄弟たちのものとエジプト人のもので別々に用意されました。それはエジプト人が、ヘブライ人と共に食事をすることを忌避していたからです。そこにはエジプト人の持つ差別感情があります。エジプトは決して理想郷ではありません。しかしその場所において神の導きが確かにあり、その導きの中でヨセフと兄弟たちの食事の交わりがなされたのでした。兄弟たちは、席順によって自分たちの年齢順が把握されていることに驚き、互いに顔を見合わせました。運ばれてきた食事は、ベニヤミンの分が他のだれの分より五倍も多く配られました。ベニヤミンをひいきするヨセフの思いが表れています。ともあれ兄弟たち一同は、ヨセフと共に酒宴を楽しんだのでした。しかし次の44章でヨセフは、ベニヤミンを自らのもとに置くために策略をめぐらすことになります。彼はまだ兄たちを信頼しておらず、疑いの感情を持ち続けていました。
今日の場面にて特徴的なことは、登場人物の感情がよく表現されていることです。18節での兄弟たちの恐怖、彼らを安心させる執事の言葉、ベニヤミンを見て胸を熱くするヨセフ、エジプト人の差別感情、ヨセフの兄たちへの疑い。わたしたちは社会において、感情を出すことは否定的にとらえられることが多いように思います。確かにひと時の感情を抑えて接することは、大切なことです。たとえば嫌いな人に対してその感情をむき出しにし、仲良くしないのは明らかに聖書の教えていることではありません。一方でわたしたちは、怒りや悲しみといった負の感情を隠し、お利口さんでいることを強いられている面があるのかもしれません。しかし感情それ自体が悪なのではありません。今日の箇所において、登場人物の様々な感情もまた神の救いの御計画のなかにあります。そこあるのは必ずしも、喜びや楽しみと言った綺麗な感情だけではありません。恐れ、不安、疑い、差別感情といった人間の負の感情もあるのです。ここに集うわたしたちも聖人君子ではありません。綺麗な感情も、そうでない感情も持っています。こうしたあらゆる感情もまた、神の御計画のなかにあります。主イエスもまた、理不尽な境遇にある人々の怒りや、大切なものを失った悲しみに寄り添われたお方でした。時にこのお方自身が、感情を爆発させた場面もあるのです。
だからこの教会もまた、素直な感情を大切にする場所でありたいのです。わたしたちには恵みが見えないような苦しいときがあり、どうしようもなく辛いときがあり、どうしても赦せないほど腹が立つこともあるのです。その思いを断罪し否定するのではなく、皆で受け止めて乗り越えることができるよう祈り願っていく。そうゆう群れでありたいのです。キリストの十字架の救いは、わたしたちの感情にも及びます。体だけではなく心をも神は用いて、救いの御計画を実現してくださいます。わたしたちがそのような交わりのなかに入れられていることを、今日共に覚えてまいりましょう。そして喜びも怒りも悲しみも不安も恐れも分かち合いながら、この世を共に歩んでまいろうではありませんか。

