2026年2月8日礼拝説教「ゆるされない罪」

聖書箇所:マタイによる福音書12章22~32節

ゆるされない罪

 

 本日の説教題はあえて挑戦的なものとしました。赦されない罪があると、主イエスは今日の箇所でお示しになられます。いたずらに不安に思う必要はありません。同時に、赦された自分とは関係ないと理解することも適切ではありません。ここから主イエスがどのようなことをわたしたちに伝えようとしているのかを、丁寧に読み取ってまいりましょう。

 今日最初に取り上げたいのが30節の言葉です。これが、今日のお話全体の土台を提供している言葉です。主イエスはここで、ご自身に従う者とそうでない者を明確に分けておられます。主イエスに従わないならば、それは悪霊に従い、神に逆らう側に立つこととイコールです。間の道はありません。つまり悪霊とは、わたしたちを主イエスに従うことから遠ざけるあらゆる存在です。そしてこの世界には、神のご支配される神の国か、悪霊の支配する悪霊の国か、どちらかしかありません。そこには非武装地帯も第三国も存在しません。

 それをふまえて、今日のお話に入ります。悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられてこられました。主イエスは彼を悪霊から解放し、いやされます。主イエスの御業によって、一人の人が救われました。群衆は皆驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言います。主イエスが真の救い主であることに、人々は気づき始めていました。このことを聞いたファリサイ派の人々は、主イエスが悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出したと主張します。彼らは主イエスに反対していた人々です。自分たちが正しくあるためには、主イエスが悪霊の頭の力をふるう者でなければ不都合です。これは彼ら自身が正しくあるための、結論ありきの主張です。この主張によって彼らは、単に主イエスの御業を否定しただけではありません。主イエスによって救われた一人の人の救いを、ベルゼブルの力によるものだとして否定したのです。

 この主張に対し、主イエスは25~27節で反論されます。ここで主イエスは、主に二つの点からファリサイ派の人々の主張に反論されています。一つは内輪もめの例です。内戦が起れば、その国が発展することはありません。また家族内で争いがおこれば、家族は成り立ちません。もし主イエスがベルゼブルの力で悪霊を追い出していたならば、それは内輪もめです。悪霊の国は成り立っていきません。しかし実際には、神に逆らう悪霊の国が確かな力をもって存在しています。内輪もめは起こっていないはずです。ならば主イエスがベルゼブルの力によって悪霊を追い出していないということです。 さらに27節で主イエスは、もう一つのことを挙げています。ファリサイ派の人々の仲間もまた、悪霊払いを行っていました。彼らはその働きを、神の御業として認めていたはずです。同じ働きを、仲間がすれば神の御業、主イエスがすれば悪霊の仕業と主張する。そこには大きな矛盾があります。

 これらのことから、主イエスがベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのではないことを明らかにされます。ならば、その働きは神の霊によるものであり、神の国を来たらせる働きであると言えます。この世には、神の国と悪霊の国の二つしかないからです。事実神の霊の働きによって悪霊から解放され救われた人が、そこに居るのです。まさにそこに、神の国は来ています。このような神の霊による救いの働きを、主イエスは家に押し入る強盗のたとえで説明されています。強い人とは悪霊であり、家に押し入る強盗は救い主であられる主イエスです。主イエスは自らのお働きを、悪霊の国で支配されている人々を神の国へと奪い取ることに例えておられます。それをするためには、その支配者である強い人を縛り上げなければなりません。これが、悪霊を追い出された主イエスの働きに対応しています。こうして救い出された人々をとおして、そこに神の国が来ていることが示されます。この神の国を前にしたとき、主イエスに味方し共に集めるのか、それとも味方せず敵対して散らすのか、どちらかの選択を誰もが迫られるのです。

 そのうえで31~32節の言葉です。ここでまず語られているのは、人が犯す罪や冒瀆に対する驚くべき赦しです。人の子、すなわち主イエスに言い逆らう者すらも赦されます。主イエスの十字架による罪の赦しは、それほどまでに確かなものです。その一方で、“霊”に対する冒瀆は赦されないと主イエスは言われます。主イエスはファリサイ派の人々を指して、このことを語っておられます。彼らは主イエスによって救われた人の救いを否定したとき、人を救いに導かれる聖霊を冒瀆しました。彼らが主イエスに反対する自らの正しさを主張するために、主イエスに言い逆らうだけでなく、主イエスによって救われた人の救いまでも否定したからです。それは人の罪を完全に赦し救ってくださる神の赦しの御業の否定です。神による罪の赦しを否定すれば、もはや罪の赦しを期待することはできません。

 

 今この場所には、聖霊の導きによって兄弟姉妹が共に集っています。共に集っているからこそ、信仰的な欠けや弱さも互いに目に付くのです。しかし、それを根拠に兄弟姉妹の救いを否定してはなりません。否定することを赦されないほどに、わたしたちの罪を赦す父なる神の愛は大いなるものだからであり、わたしたちの罪を贖うキリストの十字架は完璧な御業だからであり、聖霊なる神がここにいるお一人お一人を確かに救いへと導いてくださったからです。わたしたちにどれほど欠けがあろうとも、わたしたちにどのような困難がふりかかろうとも、わたしたちの救いは決して否定されることはありません。この偉大な神の救いに、キリストの十字架に、そして聖霊の導きに確かな希望をもって、この一週間を共に歩みだそうではありませんか。