聖書箇所:マタイによる福音書12章15~21節
望みは彼の名に
主イエスとファリサイ派の人々が、安息日を巡り激しく対立しています。ファリサイ派の人々は会堂から出て、主イエスを殺すために相談しています(14節)。それを知った主イエスは、その会堂から立ち去られました。それはファリサイ派の人々との接触を避けるためでしょう。ところでこの場所には大勢の群衆がいました。その多くは、主イエスに従いました。主イエスがすでに手の萎えた人をいやされたことを勘案すれば、当然の結果と言えます。そして主イエスは、自らに従った人々皆の病気を癒されました。
この瞬間を切り取るならば、主イエスはファリサイ派の人々に対して極めて優位にあります。同時にここには、非常に分かりやすい正義と悪の構図があります。神の子として人々を癒される主イエスの正義。神に逆らって神の御子を殺そうとするファリサイ派の人々の悪。多くの人々は、正義である主イエスに従っています。今こそ神にある正義を示し、神に逆らう悪を滅ぼすチャンスです。主イエスに従う群衆たちは、このお方に逆らう悪を滅ぼすために自分たちも貢献しよう、と思っていたはずです。
しかし主イエスはここで自らに従う人々を戒められます。自分のことを言いふらさないように、と。なぜ主イエスはこの絶好のチャンスに、このように戒められたのでしょうか。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためでした。そして18節以降でイザヤ書42章1~4節の言葉が引用されています。ただし一見するとこの引用は、群衆に対する主イエスの戒めとは結びつきません。
そこでまずは、ここに引用されているイザヤ書の引用の言葉を丁寧に読み解くのがよいでしょう。18節後半には「彼は異邦人に正義を知らせる」とあります。正義を知らせるならば、主イエスは今、絶好の機会にあります。にもかかわらず主イエスは、それをしようとした群衆たちを戒められました。それは19節に示された、このお方の正義の内容にあります。このお方は、争わず、叫びません。悪と、あえて争うことをしない。あえて叫んで、悪を糾弾することをしない。これが聖書に示された救い主の正義の内容です。
主イエスに従っていた群衆は、悪を成敗して力強く正義を実現する、戦隊もののヒーローのような救い主を期待しました。そして群衆たち自身も、ヒーローに従う正義の味方として行動しようとしました。しかしイザヤ書に示された神の僕は違います。あえて争わず、あえて叫ばない。一見すると弱々しい正義です。これは人々の期待するような正義のヒーローの姿ではありません。だからこそ多くの人々は、その声に聞きません。しかし主イエスによってイザヤ書の言葉が実現するために、彼はそのような救い主であられなければなりませんでした。群衆が言いふらそうとしたような、悪を糾弾する力強い正義のヒーローであってはならないのです。
イザヤ書の引用の言葉は20節も続きます。主イエスに示された一見すると弱々しい正義が、しかし最後には勝利します。それまで彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すことをしません。傷ついた葦や、くすぶる灯心は、役に立たずなものを象徴しています。しかし正義が勝利するまで、彼はあえてこれらを捨て滅ぼすことをしません。今日のお話において、神から見て、もはや役立たずになってしまっているのは誰でしょうか。あろうことか神の御子を殺そうと躍起になっているファリサイ派の人々です。
実はこのファリサイ派の人々こそが、誰よりも自らの正義を主張し、その正義に逆らう悪を糾弾し力で滅ぼそうと躍起になっています。反対に主イエスは、自らに敵対し自らを殺そうとするこの人々を滅ぼすことを望まれません。それが、あえて会堂を立ち去られ、あえて御自分のことを言いふらさないように戒められた主イエスの行動に、はっきりと表れています。そして敵を滅ぼすことを望まない救い主は、敵をも救うために十字架にかかられました。自らを十字架にかける人々にすら、神の赦しを祈られました(ルカ23:34)。彼がそのような救い主であるからこそ、救いに値しないと見なされてきた異邦人は、このお方の名に望みをかけるのです(15節)。
神の御子であり救い主であられる主イエスキリストは、確かに悪を滅ぼされ、罪に打ち勝たれました。しかしそれが十字架によってなされたということを、決して忘れてはなりません。キリストは決して罪人を糾弾し、論破して正義を実現されたのではないのです。もしキリストが、悪を糾弾し力で正義を実現する正義のヒーローとして理解されるならどうでしょう。キリストに従う者は、自らの力で積極的に悪を糾弾して滅ぼすことへと傾倒していくことになります。往々にしてそこで標的にされる悪は、神から見た悪ではなく、キリスト者自身の都合の悪いで存在あることが多いのです。わたしたちもまた、神に敵対する悪を滅ぼすことを口実に、自分にとって都合の悪い人々を非難し、排除することへと傾倒してしまうことがあるのです。今日の箇所で主イエスが戒められたのは、ファリサイ派の人々ではなく、ご自身に従う群衆です。わたしたちもまたキリストを信じ、このお方に従う者です。だからこそ、わたしたちはこのことに注意しなければなりません。
今、キリスト教に限らず世の中全体が、力によって悪に勝利し、悪を滅ぼして実現する正義に酔っているように思えてなりません。しかしわたしたちは、悪を糾弾し力で攻め滅ぼして勝利を得る正義のヒーローに望みを置いているのではありません。キリストは自らが十字架にかかられ、自らが痛みを負われることによって、それを成し遂げたお方です。だからこそわたしたちもまたこのお方の名、主イエス・キリストという名に望みを置いて、共に歩んでまいりましょう。

