聖書箇所:コリントの信徒への手紙一8章1~6節
神の歴史を紡ぐ者として歩む
本日は年間標語の御言葉に聞きます。わたしたちは毎主日ごとに礼拝に与っています。そこから平日の歩みへと遣わされています。これはとても大切な信仰者の1週間の生活サイクルです。しかしそれを繰り返していますと、この一週間、この主日、と視野がせまくなりがちです。しかしわたしたちは大きな歴史の中を歩んでいます。この広い視野をもって、この御言葉に聞きたいと願っています。
今日の箇所でパウロは、偶像に備えられた肉について取り上げています。これは、コリント教会からの質問に回答するために書かれています。どのような質問がなされたのかを正確に知るすべは、もはやありません。けれどもコリントの町の歴史的状況とパウロの回答の文面から、ある程度読み取ることができます。コリントは、偶像を崇める異教が根付いている町でした。それらを全く排除して暮らすことは、ほぼ不可能でした。その面では、キリスト教徒がわずかであるこの日本で暮らすわたしたちと、似た状況にあったと言えます。ここで特に問題となっていたのは、偶像に供えられた肉についてです。このような肉は市場にも普通に出回っていました。それを完全に避けることは、事実上困難でした。コリント教会には二つの立場の人々がいました。一つはこの肉を食べることに、信仰的に抵抗を感じていた人々です。この人々は、7節以降で「弱い人々」と呼ばれています。弱い人々がいたということは、強い人々もいたと言うことです。強い人々は、偶像に供えられた肉であっても気にせず食べていました。その根拠となっていた聖書理解として読み取れるのが、4節の記載です。世の中に偶像の神などない。唯一の神以外にいかなる神もいない。このことは、聖書に記されています。それに基づいて強い人々は、偶像に供えられた肉を気にせず食べていました。それだけでなく、弱い人々を知識がなく信仰が未熟だと見下していました。
パウロは強い人々が根拠としていた「唯一の神以外に神はいない」という知識そのものは認めています。だからといって、強い人々に賛同したわけではありません。むしろ彼らの問題点を、1節後半以降の言葉によって指摘しています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。これは決して、聖書を知識的に学ぶことを否定するものではありません。コリントは、ギリシア文化の影響を強く受けていた町です。ギリシア文化において、知識はいわばその人のステータスでした。だからこそ強い人々は、「神は唯一である」という聖書の知識によって、自らを弱い人々よりも優れていると自認していました。
彼らに対してパウロは、自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのだと指摘しています。自分は何かを知っていると誇るのは、知識をステータスとするギリシア風の知識理解です。しかし聖書の知識は、ギリシア風にではなく神の言葉として理解する必要があります。その鍵となるのが「愛」です。3節で、そのことが記されています。パウロは「神を愛する者は、神に知られている」と、あえて受け身で書いています。人が神を愛するのは、まず神がその人を知ってくださっているからです。聖書において知るとは、愛することと深く結びついています。わたしたちが神についての知識を得る前に、まず神が知識のないわたしたちを知り、愛してくださいました。ここに示されるのは神の愛と共に、神の御前に人がいかに不完全で無知な存在であるかということです。この視点から聖書の言葉を知るときに、その知識が人を高ぶらせることはありません。まして他者を見下すなど起こりようがありません。
大切なことは、神がどのようなお方であるか、です。「唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識も、この観点からとらえなおす必要があります。それをパウロは5節以下で説明しています。神が唯一であるという事実は、世界がこの神によって作られ、そしてその完成へと向かう神の歴史の中にわたしたちを置きます。この神の歴史の中心に、唯一の主イエス・キリストがおられます。キリストにおいて、わたしたちは存在価値が与えられています。キリストによって存在している限り誰一人、価値のない者はいません。皆に、神の大きな歴史の中での役割があります。そこに見下していい者はいません。神の歴史とその中心におられるキリストという広い視野から見るからこそ、このことが言えるのです。
偶像に供えられた肉を食べてよいのか、と質問したコリントの信徒たちの視野は、「今」「自らが」どうするか、という非常に狭い範囲にとどまっています。しかしパウロはここで、神の歴史という時間的な広がりと、兄弟姉妹という空間的な広がりのなかでこのことを考えるように促しています。この広い視野、広い範囲で、わたしたちの身近なこと、行動、生活を考え、実践していまいりたいのです。今は余裕ない時代です。今をどうするか、自分をどう守るかに終始しがちです。しかし神は、世界の始めから世界の終わりに至る神の大きな歴史のなかに、わたしたちを置かれます。この歴史の中で、その中心であるキリストにあってわたしたちが救われて、ここに存在しています。そしてここには、同じく神の歴史の中で必死に生きている兄弟姉妹が共に集っています。ここに集うわたしたちは今、この神の歴史の最前線を生きています。この神の歴史を後世に紡いでいく者として、わたしたちは歩んでいくのです。
この年、この浜松教会の歩みをとおしてキリストの救いに基づく神の歴史が実現したと、子供たちに、後世のキリスト者たちに、そして主なる神に言っていただける。そのような年にしていこうではありませんか。

