聖書箇所:創世記43章1~14節
失う決意
先月に引き続き、ヨセフ物語のお話です。エジプトに売られたヨセフが、ファラオに次ぐ地位にまで出世します。それは、かつてヨセフが夢で見た神のご計画が実現へと向かう備えとなりました。それは、ヨセフの父と母と兄弟たちが皆ヨセフにひれ伏すというものでした。前の章において、ベニヤミンを除いた兄たちがヨセフのもとに穀物を買いにやってきました。彼らは目の前にいるのがヨセフと気づくことなく、彼にひれ伏しました。神のご計画の実現が、目前に迫っています。しかしヨセフは、かつて自分を売った兄たちを信頼できません。自らの身分を明かすことなく、兄たちに弟を連れてくるよう命じ、人質としてシメオンを捕らえます。帰った兄たちは、ベニヤミンを連れてエジプトに戻る許可を父ヤコブに求めます。しかしかつてヨセフを失ったトラウマから、彼はそれを許可しません。兄たちは、ヨセフを失った原因が自らにあることを自覚していました。ゆえにそれ以上強く求めることはできませんでした。それぞれの思いが交錯し、状況が動きません。そのような状態が動き出していく。それが今日の箇所です。
さてカナン地方の飢饉がひどくなり、兄たちがエジプトから持ち帰った食料も食べつくしてしまいました。すると父は息子たちに、もう一度行って食糧を少し買ってくるよう命じます。この言葉に反論したのは、ユダでした。弟が一緒でなければ、買いに行くことができないこと。それは穀物を管理するあの人が、それを厳しく命じたからだということ。それを父に伝えます。それに対して父は6節で、息子たちに文句を言い始めます。それに対して彼ら、すなわちユダだけでなく兄弟たちが皆で父に反論します。こんなことになるとは思いもよらなかった、と。何か悪いことが起こった後に、あのときこうすべきだったと責めることは簡単です。しかしそのような事後の責任追及は、物事の解決に寄与しません。実際この章に入っても、この7節までは状況が変わっていません。穀物が尽きていく極限状態の中で、父は息子たちを責め、息子たちは自らを正当化することに終始しています。
しかし8節以降のユダの言葉から、事態は動き出します。ここでユダは、自らが弟のことを保障するから一緒に行かせてほしいと申し出ます。それができなければ、自分が生涯その罪を負い続けるとまで言います。軽々しく口にできる言葉ではありません。彼はあえて自らを危険にさらします。自己正当化を続けていたほうが、彼個人にとっては安全だったでしょう。しかし事態打開のために、彼は危険を承知で一歩踏み出したのでした。この言葉に促されるようにして、父イスラエルも息子たちに11節以下の言葉を言います。それはこれまで彼が語ってきたような、ベニヤミンの同行を拒否する言葉でもなければ、息子たちを責める言葉でもありません。どうしてもそうしなければならないなら、相手からの好意を得られるようできる限りのものを持ち、相応の銀を持参したうえで戻るようにと息子たちに告げたのでした(11~13節)。父もまた、可愛い弟ベニヤミンを手元に置き続ける安心を手放す危険な決断を、ここで下したのでした。
この危険な決断をした彼の14節の言葉が大変印象的です。彼自身にできることは、ここまでですでにやり尽しています。これ以上、彼は何もできません。そのとき彼は、神に切に求める祈りへと導かれたのです。もう一人の兄弟と、これからエジプトへ向かうベニヤミンを返してくださるように。それが父の願い求める結果でした。もう一人の兄弟については、名前が記されていません。この祈りによって、かつて失われたヨセフが返って来ることがほのめかされているからかもしれません。父の祈り願った内容以上の神のご計画が、すでにこの祈りによって実現しつつあります。一方でこの祈りは、彼自身が望んだ結果とはまったく違う結末となったとしても受け入れる決意が伴っています。求めと決意の祈りにおいて、八方ふさがりで停滞してしまった状況が、動き出していくことになります。どうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。この決意の祈りは、エステル記において王妃エステルが自らの命をかけて王に直談判する際に祈った祈りにつながっています(エステル4:16)。そしてこの祈りの先には、ゲッセマネの主イエスの祈りがあることをも覚えたいのです(ルカ22:42)。
ユダや父ヤコブ、そして後の時代のエステル、主イエスキリスト。いずれもが、神の救いを求め、安全地帯から一歩踏み出しています。そこから、神の救いの御業が始まるのです。キリストは、安全で快適な天から罪の現実あふれ危険を伴うこの地上へと来てくださいました。そして自らの願いを祈りつつ、それ以上に神の救いの御業を願い求めて十字架におかかりくださいました。すべてはわたしたちのためです。だからこそわたしたちは、このお方をたたえ、感謝するのです。こうして救われたわたしたちは、このお方に従い、神の救いの御業に参加する者とされています。安全地帯に留まったまま、このお方にお従いすることはできません。わたしたちが今日この教会へと来ていることが、すでに危険を伴う行為です。安全なところから一歩踏み出して、わたしたちはキリストのもとに集いました。互いに愛し合うために。そして互いに重荷を担い合うために。
危険が伴うこの場所にこそ、神の救いの御業が実現するのです。そこではわたしたちの願う結果以上の救いの出来事が起こります。父ヤコブに死んだはずのヨセフが返されたように。そしてキリストの十字架の死の先に復活があったように。そこでわたしたちは、何かを失わなければならないかもしれません。しかしそれ以上の救いの恵みを、危険を犯して一歩踏み出すわたしたちに、神は備えていてくださいます。


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