2026年1月11日礼拝説教「主イエスの許可」

聖書箇所:マタイによる福音書12章9~14節

主イエスの許可

 

 先週学びました直前の箇所に続く今日の箇所においても、安息日に対する主イエスとファリサイ派の人々との理解の違いが明らかにされています。キリスト者にとっての信仰生活の中心は安息日の神礼拝です。主イエスが復活されるまでは、土曜日が安息日でした。そして今は主イエスが復活された日曜日を安息日として礼拝を守っています。曜日が違うとはいえ、安息日の礼拝を守ることは旧約時代から一貫して重んじられてきました。それがまさに、キリスト者がキリスト者であることのひとつの印です。安息日こそがキリスト者としての生活の要です。それゆえ安息日の理解が、キリスト者であるわたしたちの生き方全体を大きく左右します。皆さんは今日この主日をどのような日と理解し、どのような思いをもって礼拝にいらっしゃったでしょうか。自らを見つめながら、今日の御言葉に聞いてまいりましょう。

 今日の箇所で主イエスは、会堂にお入りになられます。安息日の礼拝に、主イエスもまた加わられたわけです。するとそこには、片手の萎えた人がいました。そこで人々が主イエスに尋ねます。この「人々」が、ファリサイ派の人々を指していることは前後の文脈から明らかです。彼らが主イエスに問うた目的も明確に示されています。イエスを訴えるためです。彼らは、安息日に病気を癒すことは許されていないと理解していました。直前の箇所で主イエスは、安息日に麦の穂を取って食べることを容認されています。ゆえに主イエスが安息日に病気を癒すことをも許可するだろうと、彼らは予想していました。実際に主イエスは、そのようにお答えになられます。しかしながら主イエスは、単に彼らの質問たけに答えることをされませんでした(11~12節)。12:7において主イエスは、神が求めておられるのは憐れみであると示されました。この観点で、主イエスはファリサイ派の人々の問いかけに答えられています。安息日に穴に落ちた羊を引き上げることは、ファリサイ派の理解においても容認されていました。しかし羊よりもはるかに大切であるはずの人間に憐れみをかけることが、容認されていません。これが神の御心なのかと、主イエスは鋭く問うておられます。そのうえで主イエスは、安息日に善いことをするのは許されている、とお答えになられます。これはやむを得ない例外的な許可ではありません。口語訳聖書でこの個所は、「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と訳されています。安息日があけた明日してもいいけれど、今日してもよいという趣旨ではありません。これこそ安息日にすべき、正しいことである。これが、律法の完成者であられる主イエスキリストのお答えです。

 そして主イエスは13節で、律法の完成者として手の萎えた人を安息日に癒されました。それが安息日をお定めになられた神の御心であることを、権威をもってお示しになられました。人が神から憐れみを受け、重荷を取り去られ、癒される。それが主イエスのお示しになられた安息日の姿です。本来の意味での安息日がここにあると、主イエスはこの癒しをとおしてお示しになられました。主イエスがなされたのは、安息日の廃止や妥協ではありません。本来の安息日の回復です。本来であれば、この安息日の回復は喜びであるはずです。ファリサイ派の人々も、主イエスの言葉を聞き、力ある御業を見ました。しかし彼らは主イエスがおられる会堂から出て行きました。そしてどのように主イエスを殺そうか相談しました。主イエスによって明確に示された神の憐れみが、彼らには見えませんでした。彼らにとっての安息日とは、訴える日であり、殺す日でありました。

 主イエスを訴えることに夢中な彼らは、手が萎えた人の重荷が見えていませんでした。彼は同じ会堂に集い、同じ主を礼拝している人です。しかし彼らはその人を、主イエスを訴えるための道具としか見ていません。ここにこそ、彼らが主イエスの御業を見落とし、そこに示された本来の意味での喜びの安息日を理解できなかった根本的な原因があります。彼らの姿は、キリストに目を向けないまま迎える安息日の姿を示しています。そのような安息日は、律法を守れない人々の罪を訴える日であり、その罪によって人を殺す日にしかなり得ません。それは同時に、僅かでも御言葉にかなわないことがあれば訴えられる日であり、弱さや本音を出すことのできない日です。キリストのいない安息日は、「してはならない日」であり「重荷を負う日」です。わたしたちはそのような安息日を過ごしてしまっていないでしょうか。

 

 しかしこの安息日にこそ、わたしたちは御言葉をとおして主イエスと出会います。十字架においてわたしたちの罪をすべて担われたこのお方が安息日に語られるのは、罪を責める断罪の言葉ではありません。許可の言葉です。安息日に善いことをするのは許されている。それは正しいことである、と。この十字架の主イエスの言葉を聞くとき、安息日の意味は180度変わります。それは「してはならない禁止の日」ではなく「憐れみに基づき善いことができる許可の日」となります。「叱責を恐れて萎縮する日」ではなく「重荷に苦しむ兄弟姉妹に寄り添うことのできる自由の日」となります。安息日にこそ、病や弱さに目が向けられ重荷が癒されていく日です。自らがこの安息日の恵みを受けるだけにはとどまりません。共にこの場に集う皆が、本来の意味でのこの安息日を過ごすために、わたしたちは主イエスに従うのです。そこには兄弟を自らの望みのための道具として見るファリサイ派の人々の視点はありません。主イエスと出会う安息日においてこそ、わたしたちは隣人を道具ではなく一つの大切な命として見ることのできるのです。主イエスと共に過ごすこの本来の安息日の恵みを得て、ここで休み、力を得て、この一週間を歩みだしてまいろうではありませんか。