聖書箇所:マタイによる福音書12章1~8節
いけにえではなく憐れみを
新しく始まったこの2026年の歩みも、御言葉に聞き従いながら進みゆきたいと願っています。しかし「どのように御言葉に聞き従うか」という点については、様々な考えや理解があります。その判断基準もまた、聖書から教えられる必要があります。
今日の箇所において、主イエスとファリサイ派の人々が議論しています。ここで議論になっているのは、聖書に記された御言葉をどのように理解し実践するかです。この議論は、主イエスが安息日に弟子たちをつれて麦畑を通られたことから始まります。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めました。それをファリサイ派の人々が「安息日にしてはならないことをしている」と非難しています。律法において、弟子たちの行動は許されていることでした。ファリサイ派の人々が問題としたのは、それが安息日に行われたという点です。彼らは、主イエスの弟子たちが安息日に収穫という仕事を行ったとみなしました。それゆえに、安息日に休めと命じられた神の御言葉に違反する行為だと、非難したのです。それに対して主イエスは、3節以下で反論されます。ここで主イエスは、旧約聖書の二つの事例を挙げながら、弟子たちの行動が律法に違反しないことをお示しになられます。ここから、聖書を正しく理解するうえで大切なことの一つが見えてきます。それは聖書全体から理解する、ということです。ファリサイ派の人々のように、ある特定の御言葉を抜き出して「こう書いてあるから、こうなのだ」と主張をするのは、一見すると大変聖書を重んじているように見えます。しかし主イエスの聖書理解は違います。関連する聖書の他の箇所を挙げ、聖書全体から御言葉が記された本来の趣旨を明らかにしておられます。それが聖書を適切に理解するためには必要です。
続く6節以降には、聖書を理解するうえで大切なもう一つのことが示されます。そしてこちらが、今日の箇所における中心点になります。「神殿よりも偉大なもの」とは何でしょうか。主イエスキリスト御自身であると理解するには、原典ギリシア語の文法的な観点から困難があります。神殿よりも偉大なものとは、神の憐れみであると理解する説があります。そのような側面は、大いにあるとわたしは思います。しかしそれ以上に、主イエスが地上にいらっしゃって神の国を宣べ伝え、様々な奇跡が起こっているこの状況全体が、神殿よりも偉大であると考えるのがよいでしょう。マタイ福音書における主イエスは、律法の完成者であられます。神殿もまた律法が行われる中心地ではあります。けれども律法の完成者であられる主イエスの言葉と行動、そしてそこから起こる状況のほうが、神殿よりもはるかに偉大です。この主イエスが、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という旧約聖書サムエル記の言葉を引用し、ファリサイ派の人々の聖書理解の問題点を指摘しておられます。律法は規則である以上に神の御心を示すものです。そしてその神は、憐れみを求めておられます。しかしファリサイ派の人々が律法をとおして求めていたのは、憐れみではなく「いけにえ」でした。彼らは自分よりも律法を守っていない人々の怠慢を指摘し、非難することをとおして自らの罪を覆い隠し、自らの正しさを主張することができました。彼らはまさに、弱い人々を自らの罪を覆い隠すための「いけにえ」にしていたわけです。
今日の箇所において、主イエスの弟子たちが麦の穂を摘み始めたら、すかさずファリサイ派の人々が非難を始めます。それは彼らが安息日に一生懸命監視していたからではないでしょうか。それは必ずしも悪意に基づくものではありません。しかし結果的にその行動は、他者をいけにえにして自らの正しさを得ようとするものでした。そこに神の憐れみはありませんでした。誰よりもこのファリサイ派の人々自身が、安息日に休んでいないのではないでしょうか。彼ら自身が、神の備えてくださった安息日に休むことなく、重い軛にとらわれています。このような彼らの姿は、わたしたち自身の姿でもあります。わたしたちもまた、自分よりも聖書に従っていない人々を探し出し、その人々を非難し、なんとか自らの正しさを確保しようとするのです。そのために安息日までも休むことなく、他の人々のあらさがしに奔走するならば、そこには安息も何もありません。
だからわたしたちは「いけにえ」ではなく神の憐れみを求めたいのです。この神の憐れみは、主イエスキリストの十字架と復活をとおしてわたしたちに示されています。このお方が、わたしたちの正しさを獲得してくださいました。わたしたちはもはや、他者をいけいにえにして自らの正しさを示す必要はありません。だからこそこのお方を見上げながら、他者の重荷を負い、弱さによりそい、共に歩むことができます。そのときわたしたちは、本当の意味で休むことができるのです。まさに人の子である主イエスキリストこそが、安息日の主なのです。
このお方にお従いする思いを、年の初めの安息日に新たにしようではありませんか。そしてこの一年、このお方に仕えてまいろうではありませんか。このお方にお従いするときにこそ、わたしたちは安心して休むことができるのです。他者を非難し、いけにえにしなければならない重荷を、キリストのもとでこそわたしたちは下ろすことができるのです。キリストの十字架にこそ、神の憐れみがあります。それが示されるために、わたしたちに御言葉が、そして聖書の言葉一つ一つが、与えられています。そのような言葉として御言葉を理解し、お従いしてまいりましょう。そのような一年を、共に歩んでまいろうではありませんか。

