聖書箇所:創世記42章1~38節
神の御業が分からない旅路
わたしたちは間近に迫る新しい年へと歩みを進めようとしています。先行きが見えにくい時代を、わたしたちは生きています。主なる神を信じるわたしたちにとっての先行きの見えにくさとは、すなわち神の御業の分かりにくさでもあります。神を信じているにもかかわらず、神の御業がなされているとは思えない状況にわたしたちはしばしば置かれます。それゆえにわたしたちは戸惑いますし、躊躇します。今日の箇所で登場する人々も、先行きが見えない中で悩んでいます。それぞれに過去にトラウマを抱え、それゆえに新たな道へと進むことを躊躇しています。しかしそのような葛藤の中で、神のお姿が見えてくるのです。
兄たちによってエジプトに売られたヨセフは、ファラオに次ぐ地位にまで出世します。このときは飢饉における穀物の管理を任されていました。この飢饉が、父や兄たちの住むカナン地方にまで及びます。父ヤコブは息子たちに向けて、穀物を買いに行くように命じます。しかし末息子のベニヤミンは同行させませんでした。父ヤコブには、過去にヨセフを失ったトラウマがあるからです。ヨセフとベニヤミンは、ヤコブが最も愛した妻であるラケルの子供です。ゆえにヨセフと同じようにベニヤミンを失うことを、ヤコブは極度に恐れていました。
さて兄たちがエジプトにやってきます。そしてヨセフと再開しました。ヨセフは兄たちに気づきましたが、兄たちはヨセフとは気づきませんでした。兄たちはヨセフにひれ伏します。この姿を見たヨセフは、かつて兄たちについて見た夢を思い起こしていました(8節)。家族全員が自らにひれ伏すという、夢で示された神のご計画を改めて思い出すのです。ここからは、ヨセフと兄たちのやり取りがしばらく記されています。ヨセフの行動には一貫性がないように見えます。これらのヨセフの行動は、彼がかつて見た夢と関連しています。目の間で兄たちがひれ伏した出来事は、必ずしもヨセフの見た夢の実現ではありません。ここには父ヤコブと彼の妻、そして末の弟ベニヤミンがいないからです。特にベニヤミンとの再会を、ヨセフは熱望していました。しかしヨセフは、かつて兄たちによってエジプトに売られて大変苦労しています。彼もまたトラウマを抱えています。ゆえに兄たちを信頼できず、彼は自らの正体を明かすことはしません。あくまでエジプトの支配者として、ここにはいない家族のことを探ります。そして末の弟を自分のもとへと連れてくるよう命じたのでした。彼らが確実に弟をエジプトに連れてくるために、兄弟の中からシメオンを縛り上げ、残りの兄たちをカナンに帰したのでした。
この過程で兄たちは、過去ヨセフに犯した罪に向き合わされます(21節)。
兄たちもトラウマを抱えています。さらに帰宅途中、支払ったはずの銀が戻されていました(28節)。そのことを知ると彼らは驚き震えながら、神が自分たちになさったことを問うのでした。このことをとおして彼らは、神の御業に直面しています。
このような出来事を経て彼らは父ヤコブのところに帰り、事の顛末を報告します。ベニヤミンと共に自分たちを再びエジプトに遣わすよう、父に願ったのでしょう。しかしヤコブはそれを拒否します。このときの状況をヤコブの視点から見ると、その気持ちも分かります。シメオン以外の息子たちが穀物と、代金であるはずの銀をもって帰ってきました。父ヤコブから見れば、息子たちがシメオンを売って穀物を手に入れたかのように見えます。彼らはヨセフをエジプトに売った前科があるからです。その彼らに末息子のベニヤミンを託したらどうなるでしょうか。彼らが今度はベニヤミンを売ることが、容易に想像できます。だからこそヤコブは、ベニヤミンをエジプトに送ることを躊躇します。彼もまた、この理不尽な状況に大変苦しんでいます。
このように、皆が過去のトラウマにとらわれて行動できない八方ふさがりの状況で42章は終わります。この状況は、現代のわたしたちと近しいものがあります。誰しも過去にトラウマを抱えています。思いがけないことに直面しながら、過去の自らの失敗に直面します。しかしそのなかでこそ、わたしたちは神に向き合わされるのです。「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」。兄たちが恐れながら語ったこの言葉は、わたしたちの言葉でもあります。そして八方ふさがりの状況のなかで明らかになっていくのが、神のご計画です。今日の箇所においてそれは、ヨセフの夢でした。この夢が実現していく中で、状況が打破されていきます。そしてこの神のご計画の先に、キリストの十字架の御業があることを覚えたいのです。このお方の十字架こそが、わたしたちの置かれた八方ふさがりの状況を打破する神の力です。先の見えない状況のなかでこそ、この十字架の力の前にわたしたちは立たされるのです。
2025年が終わろうとしている今、明るい展望を持つことはなかなか難しいと思うのです。それは教会の展望だけではありません。高齢化社会のなかで、多くの方々が少しずつ力を落としています。そして隅に追いやられています。若い世代の方々もまた、今の日本社会に明るい展望を見出せずにいます。そして重荷を負い苦しんでいます。しかしそのような戦いのなかでこそ、わたしたちは神に向き合わされるのです。だからこそ順調なときだけでなく、思いがけないことや理解できないことをも、神がなさったこととして受けとめ、考え続けてまいりましょう。すべては神が我々になさったことなのです。それらすべては、キリストの十字架による罪人の赦しという神の救いの御業の実現過程なのです。それを信じて、先が見えないこの時代のなかで新たな年への一歩を踏み出してまいろうではありませんか。

