聖書箇所:ルカによる福音書2章22~35節
幼子イエスを見る喜び
クリスマスが主イエスキリストの誕生を祝うときであるということは、多くの人々が知っています。しかしクリスマスはなぜこれほどまでに嬉しいのでしょうか。わたしたちがこのクリスマスにキリストと出会うとき、本当の意味でのクリスマスの喜びが見えてまいります。
今日の箇所は、生まれて間もない幼子イエスキリストが神殿で捧げられる場面です。この幼子イエスと出会ったシメオンが、喜びに満たされます。幼子イエスとその両親は、モーセの律法すなわち旧約聖書の御言葉に従って神殿にやってきました。主イエスの両親が、旧約聖書にある神の言葉に従って行動していることが強調されています。神の御心である律法に従う両親をとおして、主イエスご自身もまた神の御心として神殿に導かれたのでした。そして一人の人物がその場に居合わせます。それがシメオンです。25節にこの人のことが紹介されています。正しい、信仰にあついという言葉によって、聖書はこの人を高く評価しています。おそらくは周囲の人々もまた、彼を評価し、信仰者としての彼を認めていたと思われます。そのような彼は、聖霊から特別に「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを与えられていました。
メシアとは、キリストという言葉が訳された言葉です。旧約聖書において約束された、神の遣わしてくださる救い主を指しています。信仰のあついシメオンは、このキリストを迎えるという見張りの役割を聖霊から与えられていました。その彼が、ついにキリストである幼子イエスに出会ったのでした。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえました(29〜32節)。この上ない喜びを、シメオンは表明しています。私はこの目であなたの救いを見た、とシメオンは言っています。このお方自身が神の救いそのものです。それは万人のために整えられた救いであり、異邦人を照らす啓示の光です。この幼子は、未だ神から遠く離れている人々を照らし、彼らをも神の御許へと立ち帰らせるのです。このお方のゆえに、誰もが神の御許へと帰ることができるのです。それが主イエスキリストというお方の救いなのです。この言葉を語ったシメオンが、幼子を見ることで与えられた喜びとはどのようなものだったでしょうか。彼は「この僕が安らかに去ることができる」言ってと喜んでいます。去るとは、解放の意味があります。約束された救い主を見るという自らに与えられた役割を全うし、彼はこの役割から解放されました。それは、自らが死を迎えてこの世を去ることをも意味しています。彼はそのことを、自らの救いの出来事として心から喜び、神をたたえています。
皆さんがシメオンと同じ立場に置かれたとき、果たして彼のように喜べるでしょうか。もう、あなたの役割は終わりました。あとはもう安らかに死んでください。常識的に考えますと、それは喜びではなく悲惨です。そうならないために健康に気を使い、自らの能力をアピールし、自分に与えられた役割を失うことがないように必死に努力しているのではないでしょうか。アンチエイジングという言葉があります。最近は、子供たちまでもがアンチエイジングに取り組んでいることがメディアで紹介されていました。そこにあるのは老いに対する強烈な恐れと忌避感です。これは単なる容姿だけではありません。老いれば能力は低下し役割を担えなくなります。アンチエイジングとはすなわち、自らの能力や役割がなくなることへの恐れです。若さにしても能力にしても、自らが持っているものを何よりの喜びとするのが、アンチエイジングの前提となっている価値観です。その中で誰もが失うことを恐れて、誰もが必死に努力しています。
この価値観でみるならば、シメオンは成功者です。老いてなお、聖書で認められるほどの正しさと信仰を彼は持っていました。おそらく彼の周りには、彼を尊敬する人々が絶えることはなかったでしょう。しかしその人生に彼自身が喜びを感じていたとは思えません。なぜなら彼は、主イエスと出会ったとき、自らが安らかに去ることを心から喜んでいるからです。彼はキリストとの出会により、自らが衰え、役割を失い、死んで去っていくことが決定的となりました。しかしそれを、シメオンは喜んでいます。自らが衰えてでも、幼子キリストが栄えて神の救いの御業がなされることを、彼は喜びました。彼にとって救い主との出会いは、まさに得ることを喜びとする価値観からの解放でした。こうしてお生まれになられたキリストは、後にわたしたちの救いのために十字架におかかりくださることになります。わたしたちが神の御許へ帰り、そこで栄えるために、このお方自身は衰え、死んでくださいました。このお方は自らが得ているものを喜ぶのではなく、それを手放してまでわたしたちが栄えることを喜びとしてくださいました。もはや失うことの恐れは、ここにはありません。
救い主、主イエスキリストと出会うわたしたちに与えられるのは、このような喜びです。たとえ自らの能力を失ったとしても、たとえ自らが衰えたとしても、たとえ無価値とみなされて人々から見放されようとも、それでもキリストが栄え、このお方をとおして救いがなされることを喜ぶことができるのです。この喜びは、たとえ能力が失われようとも、若さが失われようとも、そして死を迎えようとも、決して失われることはありません。役割を終え、死を迎えるばかりのシメオンが満たされたのもまさに、この喜びです。キリストが栄え、キリストをとおして人々が救われていくことを喜びとするとき、その喜びは死のその瞬間までわたしたちを満たし続けます。それがクリスマスに与えられた主イエスキリストという救いの姿です。この救いを、今日共に喜びあおうではありませんか。

