2025年12月14日礼拝説教「安らぎを得るために必要なこと」

聖書箇所:マタイによる福音書11章25~30節

安らぎを得るために必要なこと

 

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしたちは皆、この招きに応えて、安息日であるこの主日にこの場に集っています。ところで皆さんはこの主日をちゃんと休めているでしょうか。教会でも、考えるべきこと、やらなければならない奉仕があります。また聖書には、心が重くなるような言葉も記されています。では主イエスのもとで休むとは、どうゆうことなのでしょうか。それは単なる義務からの解放ではありません。主イエスは、わたしの軛を負いなさいと言われています。主イエスの軛を負い、このお方に従うことをとおして、わたしたちはむしろ安らぎを得ることができるのです。では主イエスの軛とは、どのようなものでしょうか。

 主イエスの軛について知るためには、25節からの流れのなかでこの箇所に学ぶ必要があります。今日の箇所は主イエスが父なる神を賛美する言葉から始まります。ここでは「知恵ある者や賢い者」と「幼子のような者」が対比されています。この当時の人々が「幼子」と聞いて思い浮かべるイメージは、力のない者、学のない愚か者、そして邪魔者です。幼子とは、さげすまれる人々を象徴していました。通常の学問であれば、このような人々よりも知識のある者や賢い者の方が多くのことを理解できるでしょう。しかし全く逆のことが、主イエスの宣べ伝えられていたお言葉では起こるのです。それが父なる神の御心に適うことでした。では知恵ある者や賢い者とは誰でしょうか。主イエスは直前の箇所において、悔い改めない町を主イエスが叱られています。その際に、25節の言葉を語っておられます。ゆえに知恵ある者や賢い者とは第一に、この悔い改めなかった町々です。また福音書全体の流れから見れば、ファリサイ派や律法学者たちも含まれるでしょう。彼らが悔い改めなかった大きな要因は、自分よりも愚かな人々をさげすみ、他者との比較によって自らに安心を得ていた点にあります。それは他者と比較して優秀な者を優遇する現代の競争社会の姿そのものです。このような競争社会は、他者をあおる言葉をも伴います。「これをしなければ負け組だ」「これができなければ生きる価値がない」。実際主イエスは、ファリサイ派や律法学者たちについてこの意味で重荷を負わせる者として語られています(23:4)。彼らは聖書に記された律法を大変厳しく解釈し、それを実行することを人々に教えていました。それができない人々をさげすみ、価値のない存在とみなしていました。それによって多くの人々が重荷を負わされ、尊厳を傷つけられ、存在価値がない者とみなされていました。現代においても当たり前に受け入れられている競争社会の問題点が、ここにあります。

 このような競争社会において重荷を負っているのは、競争に勝てない人々だけではありません。競争に勝ち続けたとしても、上には上がいます。誰もがいずれ、さげすまれる側になるのです。競争社会のすべてが悪ではありません。問題なのは、この競争社会における優劣が、あたかもその人の存在価値を示すかのように見なされている点にあります。それゆえに、他者より優秀であり続けなければならないという重い軛を、誰もが負っています。そのような人々を、主イエスは招かれるのです。主イエスのもとには、競争社会とは全く別の秩序に基づく世界があります。それが主イエスの宣べ伝えておられた天の国の姿でした。ここに集うわたしたちもまた、この天の国の一員として、この場において主イエスのもとに結ばれているのです。

 ところで人々が重い軛である競争社会のなかに生きてしまうのはなぜでしょうか。その答えが、今日の27節に示されています。父なる神と、子なる神キリストの間には、互いに理解しあう愛の関係が結ばれています。そして子なるキリストは、子が示そうと思う者に父を知らせてくださいます。父なる神を知るためには、キリストがどうしても必要なのです。キリストをとおして父なる神を知るときにこそ、わたしたちは安らぎを得ることができるのです。裏を返せば、キリストに目を向けることない聖書の言葉は重荷にしかなりません。ここに、知恵のある者や賢い者の根本的な問題点が見えてきます。彼らの視野に、キリストがいないのです。キリストに目を向けることなく「聖書にこう書いてある通りに従わなければならない」と理解するならば、それは自由を拘束する重荷にしかなりません。それと同時に、聖書の言葉に従えない我慢の足りない人々は神から見て価値のない者だとみなされることになるでしょう。キリストから目を背けるならば、あっという間に聖書は重荷に、教会は競争社会になり下がるのです。対して、罪人のために死なれたキリストをとおして聖書の言葉や戒めを見るときに、それは父なる神の愛の言葉となります。それは重荷ではなく、父なる神が与えてくださった生きる指針となります。それは子供の幸せを願う両親が、子供を幸せな道へと導くようなものです。これこそキリストが「負いやすく、軽い」と言われた、このお方の軛なのです。

 

 もちろん、このお方の軛を負ったとしても様々な苦難があります。しかしキリストに示された父なる神の愛に目を向けるとき、もはやそれはわたしたちを縛る重荷ではないのです。古代教会の指導者アウグスティヌスは、「われわれに課せられたものの中で何が過酷であろうとも、愛はそれを軽くする」という言葉を残しています。キリストに従うか否かに限らず、わたしたちは過酷な競争社会が当たり前の世界に生きています。そのなかで、キリストの十字架に示された神の愛に目を向け続けるかどうか。ここに、わたしたちの生き方がかかっています。主イエスキリストという大いなる神の愛を見つめることをとおして今日この主日を休み、安らぎを得ようではありませんか。