2025年12月7日礼拝説教「奇跡が行われた責任」

聖書箇所:マタイによる福音書11章20~24節

奇跡が行われた責任

 

 ここまでの主イエスの活動は、主にガリラヤ湖の近くで行われました。この地方にあった町々は主イエスの行われた数多くの奇跡を目撃しましたが、悔い改めませんでした。そして主イエスはついに叱り始められました。このお叱りの言葉には、主イエスの評価基準が示されています。そして何よりもその先にある神の裁きの基準を、わたしたちは主イエスの言葉から垣間見るのです。そしてこの神の裁きの基準に照らして、今の自分はどうなのかという問いを迫られることになります。

 今日の箇所で主イエスは、悔い改めなかった町の名前を具体的に挙げておられます。まずはコラジンとベトサイダです。コラジンの詳細は分かりませんが、文脈から推定するに主イエスがすでに活動されたガリラヤ湖近辺の町でしょう。主イエスは21節後半でこの町々に、ティルスやシドンと比較して語られています。ここにある悔い改めの表現は、旧約聖書のヨナ書で悔い改めたニネベの町が念頭に置かれています。実際、ティルスやシドンは、ニネベと同様に邪悪な町とみなされていました。あんな町よりは、自分たちの方がはるかにマシだと、コラジンやベトサイダの人々は思っていました。しかしその町々に対して22節で主イエスは、神の裁きの基準をお示しになられます。あなたたちよりもティルスとシドンのほうがマシだ、と主イエスは言われるのです。

 続く23節以降で主イエスが言及されるのがカファルナウムです。この町は、主イエスが住まわれた町です。そこには主イエスに親切にし、主イエスに尽くしていた人々が少なくなかったでしょう。ゆえにこの町が、自分たちこそが天にまで上げられると思ったのには理由があるのです。救い主であられる主イエスと特別に深い関係をもっていたからです。他の町とは比べ物にならないほど長い時間を、この町の人々は主イエスと共に過ごしました。救い主に尽くしてきた自分たちこそが、まずは天に上げられるはずだ。こう考えるのは当然です。しかしそれは主イエスの求める悔い改めとは違いました。そして主イエスは言われます。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである、と。ソドムは旧約聖書に登場する、神の裁きによって滅んだ町です。もはや伝説級の邪悪な都市です。そのソドムの方が、神の裁きの基準においてはカファルナウムよりマシだと主イエスは言われます。これは驚くべきものです。

 ところでなぜ、コラジンとベトサイダ、そしてカファルナウムは悔い改めなかったのでしょうか。この町の人々にあった問題点。それを主イエスは、ティルスやシドン、ソドムとの比較によって明らかにしておられます。悔い改めなかった町々の人々は、これらの町を挙げながら「自分たちは、あいつらよりもマシだ」と思っていました。人間は、自分よりも下の人々を見て安心を得ようとする生き物です。下に見た人々の不手際や怠惰を非難することで、自分はマシだと安心する。そこにこそ、主イエスが非難される町々の問題点があります。現代にも、このような考えは身近に存在します。苦しい立場にある人々を自己責任だと非難しながら、そのような状況に陥っていない自らに安心する。その思いはわたしたち自身の心の中にも、必ず存在するのです。

 このような、他者を見下しながら自らの安心を得ようとする思いは、信仰という事柄においてこそ如実に表れます。主イエスの近くで歩んでいる自分は、神から遠く離れて好き勝手に歩んでいるあいつらよりもマシだ。主イエスとこれほど親しく、このお方にこんなにも尽くしている自分は、主イエスに従うことに不真面目なあの人々よりはマシだ。その根底にあるのは、今の自分のままで大丈夫だという安心を求める思いであり、今の自らの心地よさに留まろうとする思いです。このところにおいて、主イエスがここで言われている「悔い改め」の意味が明らかになります。それまでの生き方を変えることです。わたしたちはどこまでいっても神の御前に罪人です。罪人であるわたしたちが御言葉に聞き、神の御前に生き方を変えようとするわたしたちの決心と勇気を、神は見ていてくださいます。そしてその思いを、神は終わりの日の裁きにおいて高く評価してくださるのです。

 主イエスご自身が神の身分に固執することなく、天からこの地上へと来てくださいました。罪がないにもかかわらず、わたしたちのために変化をお選びになられました。そして神のご意志に従って、最後には十字架におかかりくださいました。わたしたちは今日も、このお方の言葉に聞いています。それは自らを変えてわたしたちをお救いくださったこのお方の言葉に、人を変える力があと信じるからです。だからこそわたしたち自身が今日、この言葉によって変えられようではありませんか。他者を見下して安心を得ようとする者から、自らが神から遠いにも関わらず恵みによって救われた者へ。自らの信仰深さを証明するために他者を非難する者から、御言葉に従って他者を愛し他者の救いのために労苦する者へ。主イエスのために仕えた功績に安心を求める者から、罪人を赦してくださる主なる神の恵みを喜ぶ者へ。わたしたちは御言葉によって変えられることができるのです。

 

 わたしたちが罪人であることは、悲しい事実です。しかし罪人であるわたしたちだからこそ、御言葉によって変えられる余地があるのです。わたしたちが御言葉によって変えられていく。この出来事をとおして、人を大きく変えてくださる御言葉の力が、そしてキリストの十字架の力が、示されるのです。今日もこの場に、力ある神の言葉が語られました。皆この言葉に変えられて、この礼拝の場から世へと出て行こうではありませんか。