2025年11月30日礼拝説教「働きによって証明される知恵」

聖書箇所:マタイによる福音書11章16~19節

働きによって証明される知恵

 

 本日は、主イエスが洗礼者ヨハネについて語られた直後の言葉です。ここで主イエスは今の時代について語られます。わたしは高校でキリスト教史を教えています。歴史の流れを見るときに、それぞれの時代に特有の空気感があることに気づかされます。時代ごとに、人々の考え方に特徴があります。それゆえの失敗や間違いを、人々も教会も繰り返してきました。一方でそのような時代の流れを見極めて、ふさわしい道を選び取るべく行動を起こした人々もいたのです。このことは、未来から過去の時を見ているからこそ語ることができます。しかしその時代に生きていた人々が時代状況や空気感を認識し、ふさわしい道を選び取ることは容易ではありません。だからこそ「今の時代」を語る主イエスの言葉は重要です。

 主イエスはそのときの時代を、広場に座って、ほかの者に呼びかけている子供たちに例えて語っておられます。これは子供たちが、いわゆる「ごっこ」遊びをしている様子です。笛を吹いて喜びの場面をしようとしています。葬式の歌を歌って、葬式の場面をしようとしています。にもかかわらず一緒にいる子供たちは、求められている行動をしてくれません。冷めた目線で、笛を吹いたり葬式の歌を歌ったりしている子供を見ています。これではごっこ遊びは成立しません。

 主イエスは続く箇所で、このたとえの意味をすぐに明かされます。ヨハネが来て、その後に人の子である主イエスが来られても、人々は冷めた目線で批判的に見るばかりです。人々はその時代になすべき行動を起こしません。 ではこの当時はどのような時代だったのでしょうか。それは旧約の時代が終わり、新約の時代が始まった時です。キリスト者であるわたしたちから見れば、このうえなく重要な時代です。真の救い主が来られたという、時代の転換点です。しかしその時代を生きている人々には、それが分かりませんでした。それゆえヨハネにも主イエスにも批判的な目を向け続けました。二人をとおして示されている偉大な神の救いの御業に加わるのではなく、第三者的な視点で、あたかも評論家のようにして、彼らに批判の言葉を向け続けました。彼ら自身は一切行動を起こさなかったのです。しかしわたしたちは、安易にこの人々を批判できません。わたしたちがもしこの時代に生きていたとするならば、この時がそれほど重要な瞬間であると知ることは簡単ではありません。それでもなお、その時の重要さを知るためにはどうすればよいのでしょうか。主イエスは19節の後半で、この点を語っておられます。聖書における「知恵」は、大切な言葉の一つです。それは神の民を救う神の知恵です。それは聖書に記されている神の知恵です。そして何よりもそれは、御言葉を実現する救い主、主イエスキリスト御自身を指しています。この知恵の正しさ、そして神の知恵として来られた主イエスの正しさは、その働きによって証明されます。では主イエスのなされた働きとは何でしょうか。主イエスはすでに自らの働きをヨハネの弟子たちに語られています(11:5~7)。そこで語られていたのは、旧約聖書にある神の言葉を実現する働きでした。この働きをとおして、救いをもたらす神の知恵と神の救いを実現する主イエスキリストの正しさが証明されています。それにもかかわらず人々は批判ばかりを重ね、自らは一切行動を起こしませんでした。ただただ主イエスに批判を向けるこの人々をとおして、聖書の言葉が実現することはありませんでした。そこに記された神の知恵、人の救いは実現しませんでした。聖書の御言葉を実現され、最後には十字架にかかって命を投げ出してわたしたちの救いを実現してくださった主イエスキリストと、批判ばかりを重ねて行動を起こさない人々。どちらが正しいかは明らかです。

 わたしたちは今、この主イエスの前に立たされています。わたしたちはこのお方を正しいと認め、このお方に従う行動を起こすのでしょうか。それともただただ第三者的な立場で、批判ばかりを重ねるのでしょうか。もちろん教会において批判を伴う議論をすることは大切です。しかしどのような主張をするにせよ、その知恵が正しいか否かはその働きによって証明されます。わたしたちが主イエスに従い、聖書の言葉にもとづいて何か新しい行動を起こすとき、神の知恵は実現していきます。神の言葉によって、救われる人々が起こされていきます。そしてそのとき、神の知恵の正しさがこの世に示されていくのです。

 

 今日からアドベントに入ります。救い主の到来を待ち望む時期です。わたしたちはこのお方こそが、偽りの救い主ではなく真の救い主であることを示しながら待ち望むのです。わたしたちが御言葉に従って主イエスの正しさを示そうとするときに、周囲の人々から批判され、ときに冷ややかな目を向けられるときもあるでしょう。思えばわたしたちはそれぞれに、そのような道をすでに選び取って歩んできたのではないでしょうか。たとえばここには長老や執事の働きを担っておられる役員の方々がおられます。役員にならなかったほうが働きは少なくて済みます。自らの奉仕について、指摘されたり批判されたりすることもありません。そもそもわたしたちがキリスト者としてこの世を生きることそのものが、批判され冷ややかな目で見られる歩みです。しかしここに集うわたしたちは皆、主イエスに従ってその道を選び取ってここにいるのです。この事実が、神の知恵の正しさ、主イエスキリストの真実さを示す、何よりの証明です。だからこそこれからも共に、御言葉を実現する歩みと、主イエスの正しさを証明する道を選び取り、行動を起こしてまいろうではありませんか。それこそわたしたちが、このアドベントのとき、この時代にわたしたちが歩むべき道でありましょう。