聖書箇所:マタイによる福音書11章7~15節
道を整える人の偉大さ
キリスト教とは、主イエスキリストを神の子、救い主と信じる宗教です。それゆえに、このお方が人々をどのように評価されるかは気になるところです。もしキリストが誰かを高く評価したならば、その人を見習って歩めばよいわけです。主イエスは、何人かの人をおほめになっておられます。洗礼者ヨハネもその一人です。主イエスは彼について、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とまで言われています。主イエスはヨハネのどのような点を高く評価されたのでしょうか。共に見てまいりましょう。
主イエスはヨハネの弟子たちが帰った後、群衆に向けてヨハネがどのような人物かを示されます。そのために主イエスは群衆に、あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのかと問われます。荒れ野とは、かつて洗礼者ヨハネがかつて活動していた場所です。ですから言うまでもなく群衆の答えは「洗礼者ヨハネ」です。しかしここで主イエスが問われておられるのは、洗礼者ヨハネとはどのような人物かという点です。主イエスは三つの答えを提示されます。一つ目は、風にそよぐ葦です。風に吹かれただけで右往左往する葦のような頼りない人物に会うために、群衆はわざわざ荒れ野に行ったのでしょうか。言うまでもなくNoです。しなやかな服を着た人はどうでしょうか。その答えもNoです。なぜならそのような人がいるのは荒れ野ではなく王宮だからです。そして主イエスは最後に9節で、「預言者か」と問われます。そして、「そうだ」と言われます。
預言者は主に旧約時代に神の言葉を人々に伝える役割を担った人々です。洗礼者ヨハネは、この意味でまさに預言者でした。群衆はこの預言者ヨハネに会うために、わざわざ荒れ野に行ったのでした。しかし主イエスはこのヨハネについて、預言者以上の者であると言われます。その根拠が10節です。ここで主イエスが引用されているのは、旧約聖書マラキ書3:1です。また主イエスは洗礼者ヨハネを「現れるはずのエリヤだ」とも言われています(14節)。これはマラキ書3:23,24に基づいています。マラキ書は旧約聖書の最後の書であり、3章はそのマラキ書の最後の章です。これらの預言の言葉をもって旧約聖書は終わり、預言者は途絶えます。このマラキの預言に従って、約400年ぶりに現れた預言者が、洗礼者ヨハネなのです。彼が他の預言者よりもすぐれていた点はどこにあるでしょうか。それは主イエスに洗礼を授けることなどによって、このお方こそが約束された救い主メシアであると指し示した点にあります。他の預言者も、やがて救い主メシアが来ることは語りました。しかし直接主イエスを指し示すことは、時代の制約上できませんでした。しかし洗礼者ヨハネは、それをすることが許されました。救い主を待ち望む旧約の時代が終わり、救い主が世に来られた新約の時代が到来した。このことを、ヨハネは最後の預言者として示したのです。彼自身は、決して見栄えのする人ではありませんでした。けれども主イエスこそが、約束された救い主であると直接指し示したこの一点において、彼は旧約時代の預言者以上の者なのです。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかったとまで、主イエスは言われています。
しかしながら主イエスのお言葉は、偉大な洗礼者ヨハネを評価して終わるのではありません。主イエスは11節後半で、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大であると言われます。主イエスが語られる天の国は、神の御心が実現する場所を指します。この神の御心をお示しになられたのが主イエスキリストです。それゆえこのお方の言葉に聞き従う人々は皆、天の国の国民です。そしておどろくべきことに、この天の国の国民のなかの最も小さい者ですら、洗礼者ヨハネよりも偉大なのです。それは投獄されていた洗礼者ヨハネが、天の国を宣べ伝える主イエスのお言葉を直接聞いてはいないからです。それに対して今主イエスの周りにいる群衆は、このお方から直接天の国の姿を示されています。それゆえ彼らは洗礼者ヨハネよりもはっきりと、主イエスキリストこそが救い主メシアであると指し示すことができるのです。この一点において、彼らは洗礼者ヨハネよりも偉大なのです。
ならばわたしたち自身はどうでしょうか。聖書をとおして、わたしたちもまた天の国について教える主イエスの言葉に聞いています。その意味でわたしたちもまた、主イエスのお言葉を直接聞いている群衆たちと同じです。 わたしたち自身がどれほどみすぼらしい存在であろうが関係ありません。天の国の一員として御言葉に聞き従うわたしたちを、主イエスは偉大だと言ってくださっています。それが十字架において主イエスがわたしたちに得てくださった驚くべき恵みなのです。しかし天の国はいつも、力ずくで襲われています。天の国の一員であることには、困難があるのです。それでもこの恵みをいただいて天の国の一員とされたわたしたちがなすべきことは一つです。主イエスキリストを、まことの救い主として世に指し示していくことです。御言葉を人々に語るだけではありません。わたしたちの生活、わたしたちの生き方すべてをとおして、十字架の主イエスキリストこそが救い主であると、わたしたちは指し示すのです。わたしたち自身が立派である必要はありません。わたしたち自身が完璧である必要もありません。ただひたすらに、御言葉をとおして伝えられているこのお方を指し示すのです。ここに救い主がおられると、ここに救いがあるのだと、驚くべき恵みがここにあるのだと。わたしたちのその歩みを、主イエスキリストは偉大だと言ってくださいます。この主イエスを指し示す者として、主の御言葉が語られたこの礼拝の場から世に出て行こうではありませんか。

