2025年11月2日礼拝説教「来るべき方はあなたですか」

聖書箇所:マタイによる福音書11章1~6節

来るべき方はあなたですか

 

 今日の箇所においては、洗礼者ヨハネの主イエスに対する疑問が中心に取り上げられています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」来るべき方とは、聖書において約束されている救い主を指します。果たしてあなたはその救い主なのですかと、ヨハネは自らの弟子たちをとおして主イエスに尋ねます。教会では信仰を扱います。わたしたちは、主イエスキリストを救い主と信じることによってのみ救われます。しかしわたしたちは信仰を、自らの持つイメージのなかで理解しがちです。そして多くの場合それは、一切の疑問を持つことなく、ただ一心に信じ続けるというものです。ならば洗礼者ヨハネの主イエスに対する疑問は「不信仰」なのでしょうか。そうではありません。マタイ福音書は明確に、この洗礼者ヨハネを偉大な人物として描いています(11:7以降)。疑うこと、疑問に思うこと。それは信仰の営みの一部です。

 今日のヨハネの問いも、そのようなものとして捉える必要があります。主イエスが来るべきお方であり救い主であると信じていたからこそ、彼は「あなたが救い主なのか」と問わざるを得ませんでした。なぜなら彼の置かれている現状が、あまりにも救いからかけ離れていたからです。マタイ3:11~12によれば、ヨハネが理解する救い主とは、世の悪を取り除いて綺麗にするお方です。実際それは正しいのです。その一方で、このときヨハネが置かれていた状況はどうだったでしょうか。彼は牢につながれていました。悪が、いまだに取り除かれることなく悪として存在しています。救い主が来たとは思えないような状況が、なおそこには存在しています。だからこそヨハネは、救い主として来られた主イエスに問わねばなりませんでした。あなたこそが、来るべきお方なのか、と。

 このようなヨハネの疑問は、わたしたちの疑問でもあります。聖書を信じ、救い主を信じてもなお、そこには聖書の教える姿とはほど遠い現実があります。主イエスは本当に救い主なのか。そう問わずにはいられない悲惨が、わたしたちの目の前にもあります。この問いに対して、主イエスはお答えになられます(4~5節)。主イエスはっきりとした答えを与えてはくださりません。しかしあなたが見聞きしていることを伝えよと、主イエスはヨハネの弟子たちに言われます。ここで主イエスは、これまで自らがなしてきたいくつかの働きを挙げておられます。これほどの奇跡を行ったわたしこそが救い主であると、示そうとされたのではありません。5節で主イエスが挙げられている奇跡や働きはいずれもが、旧約聖書のイザヤ書において神の救いが実現した姿として挙げられていることです。主イエスはご自分を、聖書に記された神の約束にしたがって来られた救い主としてお示しになられています。主イエスが救い主であると信じるうえで、この点が最も重要です。主イエスは様々なことをなされました。病を癒されました。死者を生き返らせられました。弱い者に優しく目を留められました。しかし何よりも主イエスは、聖書の言葉を実現するお方として世に来られました。それゆえにわたしたちは、どこまでも聖書に記された神の御言葉をとおして、救い主、主イエスキリストというお方を理解する必要があります。

 主イエスは言われます。わたしにつまずかない人は幸いである。わたしたちは誰もが、主イエスにつまずく可能性があります。なぜならわたしたちがイメージする救い主像と、聖書を実現される主イエスキリストはしばしば一致しないからです。ヨハネにしてもそうでした。ヨハネは今すぐ悪を裁き、今、自分を困難な状況から救ってくれる救い主像を持っていました。一方で主イエスはただひたすらに、聖書に示された神の御言葉を実現する働きをなされていました。ゆえにヨハネは、そしてわたしたちは、自らのイメージする救い主像を脇において、聖書の言葉を実現される救い主として主イエスキリストを受け入れることが求められます。こうして聖書を実現される救い主を受け入れた先にあるのが、あのキリストの十字架の死と復活による罪の赦しなのです。

 そのためにわたしたちがなすべきことは、問い続けることです。あなたこそが、救い主なのですかと。この悲惨な状況から、あなたはどのように救いの御業を実現されるのですかと。これは、主イエスが救い主であると信じるがゆえに投げかけることのできる問いです。救い主がおられるのに、なぜこのようなことが起こるのか。神であり救い主に従うこのわたしが、なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか。それはわたしたち誰もが感じる疑問であり、痛みでありましょう。この現状を前にして、「だから救い主はいないのだ」と言って、キリストに問うことなくあきらめることは簡単です。だから信じても意味がないのだと、教会を離れることも簡単です。しかしそのようなあきらめの先に、救いはありません。多くの人々が、このあきらめのなかで生きています。そのなかでわたしたちには、問い続けることのできる救い主が、聖書の御言葉をとおして与えられています。御言葉に聞きつつ、わたしたちは真剣に問い続けようではありませんか。

 

 口をつぐんで我慢し、文句を言わないことが信仰なのではありません。何の疑問をもつことなく、すべてを神にお任せすることが信仰なのではありません。痛みを抱えてキリストに問い続けることこそ、聖書に示された信仰者の姿です。そして必死に問い続けた先にこそ、キリストの十字架と復活の希望が示されていきます。辛く厳しい一週間がまた始まります。そのなかで、主に信頼して、問い続けてまいりましょう。主は必ず応え、希望を示してくださいます。それがわたしたちの信じる救い主、主イエスキリストです。