2025年10月26日宗教改革記念礼拝説教「ただ神の栄光を求めて」

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一10章31節~11章1節

ただ神の栄光を求めて

 

 本日は宗教改革記念礼拝です。宗教改革においては、いくつかのスローガンやテーマが掲げられました。そのなかで今日取り上げますのが、神の栄光のみです。当時のローマカトリック教会もまた聖書の神を信じていました。ですから神の栄光を求めることについては、当時のカトリック教会を含め皆が合意できたはずです。しかしこの言葉が、カトリックからプロテスタント教会が分かれていく宗教改革のスローガンとなりました。そこにはどのような背景があったのでしょうか。

 今日の箇所でパウロは、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさいと命じています。この言葉は、キリスト者の自由について教えるなかで記されたものです。パウロは、キリスト者が自由であることを強調しています。同時に、自由だから何をしてもいいとは言いません。キリスト者には、ふさわしい生き方があります。それがまさに、神の栄光を現わすという生き方なのです。このような神の栄光を現わす生き方が、32節と33節で別の側面から記されています。まず神の栄光を現わすとは、人を惑わさないということです。少しつながりが見えにくいかもしれません。神の栄光を現わすと言ったときに、それは自分だけが神を喜ぶことに中心があるのではありません。他の人々が神を喜び、神の栄光を現わすために生きるところに中心があります。それゆえに、周りの人々が神に疑念を持つようなことはしてはならないのです。

 疑念を持たれないようにすべき相手として、神の教会の他にユダヤ人とギリシア人が挙げられています。ユダヤ人は、自由を犠牲にしてでも旧約聖書にある神の律法を重んじていた人々です。一方でギリシア人は、自由そのものを重んじていた人々です。それゆえに、キリスト者は自由であるとして、神を無視して生きるならばユダヤ人たちを惑わすことになります。しかし自らの自由を犠牲にして嫌々ながらに神に従って生きるならば、ギリシア人を惑わすことになります。ユダヤ人もギリシア人も、どちらも惑わさない生き方。それは自らの自由な意思で、神を喜ぶ生き方に他なりません。それが自由であるキリスト者の生き方です。パウロ自身もまたそのように生きていました。このパウロが神を喜ぶ生き方について、自分の益ではなく多くの人の益を求め、自らが喜ぶのではなくすべての点ですべての人を喜ばせる生き方だと記しています(33節)。ここでパウロの語る益とは、神の御前における益です。それはキリストの十字架による救いでありましょう。パウロは自らが救いの恵みを受けるためではなく、自分以外のあらゆる人々が救いの恵みに与るために生きていました。しかも強制されてではなく、自ら望んでそれをなしていたのです。このような生き方は、パウロ自身から出たものではなく十字架のキリストに倣った結果です(11:1)。キリストがまず、このわたしの益のために十字架で自らの身をなげうってくださいました。もはや自らの益は、すべてキリストが十字架において獲得してくださいました。この喜びのなかでパウロ自身が、神の栄光を現すものとされました。ゆえにわたしと同じように、皆がキリストから益を受けてほしいと彼は願っています。そしてこの益を受けた周りの人々からも神の栄光がたたえられてほしいと願っています。ここにこそ、ユダヤ人もギリシア人も惑わすことのない生き方があります。ここにこそ、神の栄光を現す生き方があります。

 仮に神を賛美したとしても、もしそれがわずかでも自らが救われることを目的としてなされたのならばどうでしょう。自らの救いを求めるための行為である以上、そこに真の自由はありません。しかしもはやキリストが、十字架においてわたしたちの救いを確かに獲得してくださいました。わたしたちは自らの救いのために、神の御前に強制されて何かをする必要はありません。これほど大きな益を受けたからこそわたしたちは、神を讃えることを望み、ただ神の栄光のみを求めて生きることができるのです。さらに神が周りの人々からも讃えられるために、わたしたちは生きるのです。想像してみてください。親しい人が誰かから褒められたら、自分も嬉しくなるではないですか。そこに強制はありません。それがまさにわたしたちとキリストとの関係であり、わたしたちと神との関係なのです。そしてこのような関係の中に歩むわたしたちの姿をとおして、周りの人々がキリストを信じ、救いの恵みを受け、そして神を讃えていくのです。

 わたしたち自身が神を信じ、キリストの十字架を信じるようになったのも、わたしたちの周りにそのように生きた方がいたからではないでしょうか。自分が救われるために仕方がなくあなたに伝道します、では人は救いに導かれません。損得勘定を抜きにして、心から自由に、あなたに救われてほしいと願ってくれた方々がいたからこそ、わたしたち自身もキリストを信じることができたのです。そして今度はわたしたちが、わたしたちの周りにいるあらゆる人々に、この恵みを届けるのです。強制されてではなく、仕方なくでもなく、自らの意思で救いを願うのです。周りの人々が神を讃えることを喜びとして、わたしたちは生きるのです。

 

 わたしたち自身の救いは、キリストのあの十字架において獲得してくださいました。わたしたちはキリストから、まさに命をいただきました。この恵みと喜びを届ける者であろうではありませんか。これほど大きな喜びをわたしたちに与えてくださった神が讃えられることを自らの喜びとして、食べるにしろ飲むにしろ、あらゆることをなしてまいろうではありませんか。こんなにも喜びに満ちた自由な生き方は、他にはないでしょう。自由な者として、喜びをもって神を讃えて生きてまいりましょう。