2025年10月12日礼拝説教「受け入れる者への報い」

聖書箇所:マタイによる福音書10章40~42節

受け入れる者への報い

 

 人の生き方は、その人が誰を受け入れたかという点にも如実に現れます。そして主イエスは今日の箇所で、主イエスに遣わされた者を受け入れることの報酬の大きさを語られています。自らの望む報いを期待して神に仕える人々を、これまで主イエスは批判されてきました。その代表が、ファリサイ派の人々であり律法学者たちでした。しかしそれは、神が報酬を与えないということではありません。むしろ聖書に記された主なる神は、自らに仕える神の民に惜しみなく、法外なほどに報酬を与えられます。そのことが今日の箇所によく示されています。ここで語られているのは、主なる神やキリストに全てをささげた人々に対する報酬ではありません。預言者を預言者として受け入れる人々、正しい者を正しい者として受け入れる人々、そして主イエスの弟子たちを受け入れて冷たい水の一杯でも飲ませた人々の報酬です。

 この人々がなしたのは、小さな働きにすぎません。しかしそれに対する報酬はおどろくべきものです。ここにおいて大切なことは、働きの大きさではありません。その人を受け入れる動機です。この人が御言葉を伝える主の預言者だから、この人が主の御心にかなう正しい人だから、そしてこの人が主の弟子としてキリストに仕える人だから。受け入れる側の人々の動機はどこまでも、主なる神あるいはキリストにあります。こうして彼らは事実上、主イエスを受け入れ、主なる神を受け入れるのです。その報酬は、41節にあるように非常に法外なほど大きなものです。預言者や正しい人を受け入れるとき、受け入れた人が神から受けるのと同じ報酬を、受け入れた人も受け取ることになります。ここから、主の御言葉に仕える働き手を受け入れることの大切さを思わされます。御言葉の働き手を重んじることがなければ、教会が一致して主に仕えることは困難です。御言葉の働き手を重んじられるのは、その人が立派だからではありません。その人が、神の御言葉に仕える人であり、キリストの弟子だからです。牧師や役員が気に入らないのは、当然あることです。それでも好き嫌いを超えて、神に仕える人々を受け入れるのです。それが教会という場所です。

 そのことを確認した上で、しかしこのことは今日の御言葉の中心ではありません。なぜなら今日の主イエスの言葉は、これから遣わされようとされている使徒たちに語られた言葉だからです。彼らはこれから預言者として、人々に神の御言葉を伝える人々です。彼らは、主の働き手を受け入れる側の人々ではありません。主の働き手として受け入れられる側の人々です。彼らの立場に立ってこの言葉を聞くときに、この主イエスの言葉は少し違った響きを持ってきます。これから遣わされる使徒たちにとってこの主イエスの言葉は、自らが伝える御言葉の恵みの大きさを示すものです。頑張りの大きさによってではなく、ただ主に仕え御言葉に仕える自分たちを受け入れることを通して、この人々も使徒である自分たちと同じ報酬が与えられるのです。これは驚くべき恵みの大きさです。その一方で、これほどまでの神の恵みの大きさは、使徒たちにとって納得いかない面もあったのではないでしょうか。彼らは色々なものを犠牲にして、辛いことにも耐えて主イエスに仕えていた人々です。そのような自分たちの報酬と、自分たちを受け入れて一杯の水を飲ませてくれる人の報酬が同じなのです。主イエスのために多大な労苦と犠牲を許容してきた使徒の立場にたつならば、不公平さを感じるでしょう。

 このような不公平感というのは、キリストに仕える教会にもまたつきものです。ここに集うわたしたちは皆、貴重な休みの日曜日に時間を犠牲にして礼拝に集い、少なくない額を献金し、ときにはキリスト者であるがゆえの悩みをも抱えます。このようにして労苦するわたしたちを、キリストの弟子であるがゆえに受け入れてくれる人が起こされます。この人もまた、先に救われて長く信仰生活を送り多額の献金をささげてきた人々と同じ報酬を受けるのです。この人の労苦は、他の兄弟姉妹に比べてはるかに小さなものでしょう。教会への貢献度という面から見ても同様です。それでも神の御前に与えられる報酬は同じです。それほどまでに、神は驚くべき報酬を与えてくださるお方であり、恵み深いお方です。だからこそ、主イエスの近くに仕えている弟子たちは不公平感を覚えて戸惑うのです。しかしそれは、神の恵み深さの表れでもあるのです。結局のところ、この神の恵み深さを喜ぶことができるかという点が、この個所で問われています。

 

 この恵み深い神を喜ぶためにも、42節の主イエスの言葉に聞きたいのです。ここで主イエスは弟子たちを「この小さな者」と呼ばれています。主イエスに仕える者は皆、小さな者に過ぎません。なぜなら彼らもまた、キリストの十字架の恵みを受けなければ救われるべくもない者だからです。思えば十字架にかかられた主イエスキリストご自身が、誰よりもこの不公平を身に受けられたお方です。この方は預言者また正しい人として、地上のご生涯を歩まれました。にもかかわらず、死刑囚の一人として十字架の死を身に受けられたのです。このうえない不公平が、ここにはあります。その恵みをうけて、わたしたちは救われました。その意味でわたしたちは皆、小さき者に過ぎません。そのような小さき者が、正しい者とされ主の御言葉を人々に伝える働きを与えられ、主の弟子とされました。そのわたしたちを受け入れた人々までも、わたしたちと同じ報酬を与えてくださると神は約束してくださっています。この法外なまでの大いなる神の恵みを喜ぶ者であろうではありませんか。この恵み深いこのお方に、お仕えしようではありませんか。それはたくさんの報酬を得るためではありません。働きの大きさや貢献度を超えて豊かに報いてくださるこのお方の恵みに、一人でも多くの方々が与るためです。