2025年10月5日礼拝説教「対立をもたらすキリスト」

聖書箇所:マタイによる福音書10章34~39節

対立をもたらすキリスト

 

 主イエスの言葉は往々にして、わたしたちの想像や常識を超えます。主イエスが語られたのが神の言葉である以上、それはある意味で当然だとも言えます。今日の箇所もそのような箇所の一つでありましょう。主イエスは平和をもたらされるために世に来られました。しかし主イエスは、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」と言われます。もちろん主イエスは、人々を敵対させることを目的として地上に来られたのではありません。しかし主イエスの言葉が結果として、人と人とを敵対させることになります。しかも敵対するのは、家族というもっとも親しい間柄にある人々です。

 なぜ、主イエスの言葉は、このような敵対関係をもたらしてしまうのでしょうか。それはこのお方の伝える神の言葉が、人にとって都合の悪い言葉だからです。だからこそ、それでもあえて神の言葉に従おうとする人々と、自らにとって都合の良い言葉に留まろうとする人々に分かれます。実際、キリスト教を信じたがゆえに家族との関係が悪くなってしまった方は、少なくありません。わたし自身、そのようにして傷ついた方々をこれまでたくさん見てきました。そのような現状のなか37節で主イエスは、御自身よりも家族を愛する者はわたしにふさわしくないと言われます。主イエスは積極的に家族と関係を切れと言われているのではありません。父母を敬えという十戒の戒めをはじめとして、聖書はむしろ家族関係を可能な限り重んじることを命じています。しかしキリストに従うことと、家族と仲良くすることが、どうしても両立できないときがあります。とのとき主イエスに従う者は皆、厳しい選択を迫られることになります。

 主イエスはなぜ、このようなことを語られたのでしょうか。繰り返しになりますが、実際のところ主イエスは神の平和をもたらすために世に来られました。しかし使徒たちには、わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならないと言われます。それは主イエスがもたらされる神の平和と、わたしたちが主イエスに期待する平和が違うからです。人は誰もが、戦争よりも平和を望みます。しかしそのときにわたしたちが思い浮かべる平和はどのようなものでしょうか。今自分と仲たがいしている相手が考えを変え、態度を改め謝罪して仲良くなる。そのような平和ではないでしょうか。自らが痛みを負わなくてもいい平和を、誰しも望みます。多くの政治家が語る平和も、このような平和です。そしてそのような痛みのない平和の実現を、わたしたちは救い主に期待するのです。

 このような期待を持っていたのは、主イエスの目の前にいた使徒たちも同じだったでしょう。主イエスは、このような痛みのない平和への期待を拒否されます。むしろわたしがもたらすのは剣だと言われます。剣は武器です。痛みを伴います。しかしその痛みの先に、主イエスのもたらしてくださる真の平和があるのです。

 それを前提に、主イエスの語られた37節の言葉を理解してまいりたいのです。ここで挙げられる「父や母」とは、自らを痛みから守り、自らの望みをかなえてくれる存在です。また「息子や娘」とは、自らに従い、自らの望みに沿って行動してくれる存在です。このようにここでの父や母、息子や娘は、自分を痛みから遠ざけ、自分の望みをそのまま満たしてくれる人々を象徴しています。この人々を主イエスよりも重んじようとする思いはどのようなものでしょうか。自らの望み通りに生き、自らの命を満たすことを最優先にする思いです。その根本にあるのは、自らの命を自らの所有物とする理解です。

 

 それを踏まえて主イエスは、38節で言葉を続けられます。十字架は死刑の道具であり、命を奪うためのものです。その十字架を担うとは、自らの命に対する所有権を放棄することです。自らの命を満たすことより優先して、主イエスに従う。それを拒否する者は、わたしにふさわしくないと主イエスは言われます。では、自らの命が満たされることを脇において主イエスにお従いするのは、我慢の歩みなのでしょうか。主イエスに従おうとするわたしたちが求められているのは、自らの望みを放棄する禁欲と自己犠牲なのでしょうか。その答えが、39節です。自分の命を得ようとする者とは、自分の命を満たすことを最優先にする者です。そして自分を満たし、自分の望みに従ってくれる人々を主イエスよりも愛する者です。それは痛みのない平和を願い求めるわたしたちの姿です。また相手の方が考えを改めて自らに寄り添うことを期待する、この世界の現実です。その結果が、痛みに溢れ、命が満たされずかえって失われていく現代社会の姿です。皆が痛みをさけ自分の命を得ようと必死になっています。その結果、かえって命が失われています。一方で主イエスは言われます。わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。それは自らの命が満たされることをあえて手放して、主イエスに従う者の歩みを指しています。主イエスに従う歩みとは、罪人のためにあえて十字架を身に受けられたお方にお従いする歩みです。自らの命を満たすことよりも、誰かの命が主イエスキリストの十字架によって救われ満たされることを優先する歩みです。このような歩みにおいてこそ、かえってわたしたちは命を得るのです。この主イエスにお従いすることを通して、わたしたちの命は満たされます。なぜならこのお方こそが、誰よりもわたしたちの命を満たすために悩み、痛みを負い、命を投げ出してくださったお方だからです。主イエスに従うことには、葛藤があります。その痛みの先にこそ、わたしたちの命がこの上なく満たされる神の平和があるのです。