聖書箇所:ローマの信徒への手紙10章1~4節
人の正しさと神の正しさ
本日は秋のオープンチャーチです。心が満たされる日として、聖書の言葉に聞きます。ここで取り上げるテーマは、正しさ、あるいは正義です。人間誰しも正義感を持っています。正しくありたいと願い行動するのは、人間の当然の欲求です。それはいわゆる犯罪者と呼ばれる人々も例外ではありませ。良し悪しは別にしても、そこにはその人なりの正義があります。しかしある人の正義の行動が、かえって誰かを傷つけてしまうこともあります。今世界中で繰り広げられている戦争もまた、その典型的な一例でありましょう。時に正しさは、人を傷つけ殺します。だからこそ誰もが、自らの正しさについて考える必要があります。
そのための一助として、今日の聖書の言葉を見てまいりたいのです。これは使徒パウロが、ローマ教会の人びとに書き送った手紙の一節です。ここでパウロは「彼ら」について記しています。「彼ら」とはパウロに反対し、時には力づくでパウロの活動を邪魔していた人々です。パウロの立場からすれば、彼らこそが不正義であり断罪されて当然の人々です。しかしパウロはそのような人々を挙げて、彼らが救われることを心から願い、神に祈っていると書いています。いったいこれはどうゆうことなのでしょうか。パウロの反対者たちについて、もう少し詳しく見てみましょう。彼らが神に熱心に仕えていることを、パウロ自身が証しています。つまり彼らは、聖書に記された律法を守るべく熱心に努力していた人々でした。それが彼らにとっての正義でした。このような自らの正義に基づいて他者を批判し、パウロに抗議していました。このような彼らについてパウロは、神の義、すなわち神の正しさを知らず、自分の義、すなわち自分の正しさを求めていると、書いています。彼らは神に仕えるべく熱心に行動しているけれども、それは神から見て正しくないのです。
では神の義、神の正しさとは何でしょうか。まさにそれが、この箇所で取り上げられています。ここでポイントとなるのが、4節の言葉です。律法は、聖書の言葉と置き換えてもよいでしょう。聖書には、神を信じる者の生き方が記されています。パウロに反対している「彼ら」は、まさにその生き方を熱心に実践し、自らが正しくあろうとした人々でした。しかしここで決して見落としてはならないことがあります。キリストが律法の目標である、という点です。聖書をとおして示されている神の正しさは、イエス・キリストというお方によって示されています。このお方を脇においたまま、聖書の言葉を頑張って守ろうとしても、それは神から見て正しい姿ではありません。律法を守って自らが正しくあろうとしたパウロの反対者たちの眼差しに、イエス・キリストというお方は入っていませんでした。ここに「彼ら」の問題点があります。
律法の目標であるイエス・キリストは、罪がないにもかかわらず十字架で殺されたお方です。罪がないのに殺されたのですから、ここにあるのは明らかな不正義です。そこには、罪人の罪を代わりに身に受けるという目的がありました。このお方は自らの正しさが示され認められることを望まず、むしろ不正義を行う罪人の罪が赦されて救われていくことを願われました。このお方にこそ、神の正義が示されています。つまり神の正義とは、自分ではない誰かが救われることを純粋に願い求めることです。その「誰か」とは、自らの目には正しくない人々であり、自らに敵対する人々です。この人々の救いを求めて行動を起こす。それこそが、キリストによって示された神の正しさです。聖書では、すべての人が神の御前に罪人だと記されています。完璧である神から見れば、皆が罪人であるのは当然のことです。しかしそのようなわたしたち罪人の救いを願って、キリストは十字架におかかりくださいました。だからこそ、わたしたちは罪赦され、正しい者とされて神の御前に立つことができるのです。
神の正しさに生きられたキリストとは対照的に、パウロに反対していた「彼ら」の目的は、自分の正しさを示すことにあります。そのために、自分よりも正しくないと見える人々を指さし、抗議し、非難していました。このような他者を犠牲にして自らの正しさを示そうとする正義感を、わたしたちは皆持っています。この意味でわたしたちは皆、神の正しさから外れた罪人なのです。このような他者を犠牲にせざるを得ない人間の正義の限界を超えたところに、神の正しさがあります。それは正しくない人々の救いを願い求める、キリストの十字架に示された正義です。この正義に立とうとするとき、わたしたちは「自分は正しくない」という事実を受け入れるところから始めなければなりません。仮に自らが正しくあることに固執するならば、この神の正義は無用の長物です。しかし神の御前に正しくないこのわたしを、神がキリストの十字架によって正しい者とし、救い出してくださいました。これが神の正しさ、神の義です。この神の義に立つときに、わたしたちはもはや自らの正しさを示すために、他者を傷つけてまで一生懸命になる必要はありません。もし誰もが、この神の正しさに立つことができたとするならば、自らの正義を振りかざして誰かが傷つくことはありません。正義と正義がぶつかり合って戦争しあい殺し合うこともありません。それは手の届かない理想かもしれません。しかしその理想を目指して共に生きるのが、この教会という場所です。この教会に、ぜひ皆さんも勇気をもって集って見ていただきたいのです。すでに集っている方々は、ぜひ神の正しさの実現のために努力するこの教会に集い続けていただきたいのです。キリストの十字架に示された神の正しさに立つ者として、共に一歩を踏み出そうではありませんか。