2025年9月21日礼拝説教「悩みの地での神の御業」

聖書箇所:創世記41章46~57節

悩みの地での神の御業

 

 エジプトにおいてファラオに次ぐ地位に置かれたヨセフが、行動を起こします。今日の箇所はヨセフ個人としてのお話のクライマックスです。かつてどん底にあったヨセフが、エジプト全土を実質的に治める者とされました。ヨセフのサクセスストーリーのように見えるかもしれません。しかしヨセフは、単なる成功者ではありません。この箇所の一つ一つの表現には、ヨセフの成功よりも、彼が味わい続けた労苦が見て取れます。

 ヨセフはエジプトの王ファラオの前に立ったとき三十歳でした。彼が兄たちに夢を語り、エジプトに売られたときは十七歳でした(37:2)。三十歳という年齢は、十三年におよぶヨセフの苦難の歩みを感じさせます。その彼がファラオの前をたち、エジプト全国を巡回しました。彼が精力的に自らの働きを果たそうとする姿を見ることができます。彼がまず行ったことは、豊作の七年間の間に食料をできる限り集め、町々に蓄えさせることでした。神のご計画によれば、豊作の七年の後に七年の飢饉がやってくるからです。エジプトに来る前は末っ子であり力なき者であったヨセフが、ここでは知恵ある者としてその力を発揮しています。それは39節においてファラオがヨセフに期待した姿でもありました。この期待に応えるべく奮闘する姿と見ることもできます。とはいえ、すべてのことがうまくいったわけではなかったでしょう。豊作とはいえ食料を集めさせる政策は、人々からの反発もあったと思うのです。ヨセフが悩みながら知恵を尽くして政策をおし進めた結果が、海辺の砂ほども多くの蓄えられた穀物でした。

 50~52節にかけては、飢饉の年がやってくる前にヨセフに二人の息子が生まれたことが記されています。子供が生まれる。創世記においてそれは、子孫を増やすと言われた神の約束の実現を意味しています。ヨセフにとって二人の子供の誕生は、自らの苦しい歩みにおいて神が共にいてくださっていることの証しでした。長男はマナセ。神が、わたしの労苦と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。父の家であったことを含め、これまで自らがうけてきた理不尽や労苦を、神がすべて忘れさせてくださったのです。それほどの大きな神からの恵みが、マナセの誕生によってヨセフに与えられました。次男はエフライム。神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。ヨセフが奴隷であったときや、牢獄の囚人とされていたとき、子孫が増えることなど考えられない状況でした。とても神の約束など実現しそうにない。ヨセフが神を信じているからこそ、その状況は非常に苦しいものだったはずです。そこから驚くべき神の導きによって、子孫を増やすという約束を神は実現してくださいました。神は決して自分を見捨てていなかった。この神を信じて良かった。そんなヨセフの思いを、エフライムという名から見ることができます。

 七年間の大豊作が終わると、ヨセフによって解き明かされた神のご計画のとおりに七年の飢饉が始まりました。この飢饉はエジプトに留まらず、すべての国々を襲いました。そのなかで、エジプトには全国どこにでも食物がありました。飢饉はどんどんひどくなります。するとエジプトの民はファラオに食物を叫び求めました。ファラオは、ヨセフのもとに行って、ヨセフの言うとおりにせよと命じます。今や人々が頼るべき存在は、権力者であるファラオではなく神に従うヨセフでした。彼こそが、エジプトの人々が命をつなぐための希望の光でした。エジプトの人々だけではありません。世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来ました。

 こうして十三年間にもおよぶ報われない日々の後、ファラオに次ぐ地位に立っち、子供たちも与えられたヨセフは、労苦しながら食物を蓄える政策をおし進めました。飢饉の年になってからは、蓄えた食料の分配の先頭に立ちました。おそらく、分配においても彼は頭を悩ませたことでしょう。ヨセフの悩みは尽きなかったはずです。わたしたち神の民の歩みも、このようなものだと思うのです。様々なことに悩みます。聖書の言葉に力がないのではないかと思わざるを得ないときがあります。それでもなお、神はわたしたちと共に歩んでくださり、ときにはこれまでの労苦をすべて忘れるような恵みを与えてくださいます。しかしそれでもなお、悩みと労苦の日々は続いていきます。

 

 そのうえで特に覚えたいのは、このような神と共に労苦しながら歩み続ける神の民の歩みが、周囲の人々の命を支えたという事実です。主なる神と共に悩みながら歩んだヨセフによって、エジプトの人々だけでなく、世界中の人々の命が支えられました。神の民である彼こそが、命の希望でした。エジプトの国々の人々にしても、食料を求めてエジプトに来た人々にしても、彼らの大半は主なる神を信じる人々ではありません。その人々の命が、主と共に歩むヨセフをとおして支えられたのです。これは主なる神が「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:3)と言われた約束の実現と言えるでしょう。そして時いたって主イエスキリストがお生まれになられました。このお方も悩みながら神と共に地上のご生涯を歩まれ、十字架において苦難と理不尽の極みを身にお受けになられました。このお方によってわたしたちの命もまた救われました。そして今度はわたしたちが、主と共に歩む者とされています。それは悩み多き歩みです。理不尽を身に受ける歩みです。わたしたちのこの歩みが、わたしたちの周りにいる人びとの命を守り支えることになるのです。悩み多きわたしたちの歩みをとおして、主イエスキリストの十字架が示され、命の希望として提供されていくのです。このことを覚えながら、悩み多き世での歩みを始めてまいろうではありませんか。