聖書箇所:マタイによる福音書10章32~33節
キリストは仲間か知らない人か
直前の箇所において、わたしたちが本当に恐れるべきお方が誰かを主イエスはお示しになられました。これは終末の裁きに関連付けられて語られています。聖書での「裁き」は、分けること意味する言葉です。主イエスを前に、わたしたちは選り分けられます。人々を恐れる生き方と、魂も体も殺すことのおできになる父なる神を畏れる生き方、主イエスに従う者の道は二つに一つです。そして今日の箇所においても、主イエスは二つの道を示しておられます。一つは、人々の前で自分を主イエスの仲間であると言い表す生き方。もう一つは、人々の前で主イエスを知らないと言う生き方。これも中間の道は存在しません。この点において、神の裁きは非常に厳密です。
ここで主イエスが招いておられるのは、もちろん主イエスの仲間であると言い表す生き方です。しかしより丁寧に今日の箇所を見ますと、重要な内容が明かされています。まず目を引きますのは、使徒たちが人々の前で主イエスについて言い表した言葉が、いずれ主イエスから返ってくるという事実です。その人の言動を神がそのまま返されるという神の姿勢は、聖書においていくつかの箇所で記されています(サムエル上2:30等)。主イエスご自身も神の姿勢に基づいて、使徒たちに語っておられます。ところで32節と33節の最後で主イエスが、言い表す、知らないと言う、と言われたこれらの言葉はいずれも未来形です。それらは終末の裁きにおいて語られると理解するのが自然でありましょう。魂も体も地獄で滅ぼすことのおできになる父なる神の前で、主イエスが語られるお言葉です。ゆえにその言葉は、主イエスに従う者にとって決定的に重要です。主イエスが天の父の前でどのように語られるかに、わたしたちの生き死にがかかっています。
これほど重要な、終末の裁きにおける主イエスの言葉を左右するのは、わたしたちが人々の前で主イエスについて何を語るかです。「人々」とは、前の箇所からの流れで言えば、主イエスに従う者を迫害する人々を指しています。また、32節の「言い表す」と33節の「言う」はいずれも、公に告白することを意味する言葉です。わたしたちが公に神への信仰を言い表す信仰告白が想定されています。成人洗礼式のとき、あるいは幼児洗礼を受けた子供たちが信仰告白をするときに信仰告白をします。この礼拝においても、信仰告白として使徒信条を共に告白しました。教会の中では主イエスを信じますと言い、一歩教会の外に出れば主イエスなど知りませんと言うのは健全な信仰告白ではありません。キリストに反対する人々の前においても、同じように主イエスキリストへの信仰をわたしたちは言い表します。信仰告白とはそうゆうものです。成人洗礼前の求道者ならば、「自分はまだ信じていませんから」と言えます。信仰告白前の子供たちであれば、「自分は親から言われて教会に行っているだけだ」と言えます。しかし、このお方がわたしの仲間であると公に告白した瞬間に、先のような言い訳はできなくなります。そう考えますと、人々の前で「主イエスのことを知らない」と言う者の気持ちはよく分かるのです。迫害する人々を前にしたとき、主イエスを知らないと言ったほうが当面の安全を確保できるからです。聖書には、まさにこの例に当てはまる人物が登場します。ペトロです(26:70)。あなたも主イエスと一緒にいた仲間ではないかと問われたときに、ペトロは皆の前でそれを打ち消して言いました。この「打ち消して」が、今日の箇所における「知らないと言う」と同じ言葉です。そのすぐあと72節にある「打ち消した」も同様です。主イエスの弟子のリーダーがそうなのですから、主イエスの弟子としてこのお方に従う者全員が当てはまります。
このように、主イエスを知らないと言ってまで当面の安全を確保しようとする思いの根本にあるのは、自分の力で自らを守ろうとする姿勢です。キリストの恵みを捨ててまでも自分の力で自らを守ろうとする。それが、主イエスに従おうとするわたしたちの現実です。このように立ち回ることで、その場は自らの安全を確保できるかもしれません。しかしここで考えたいのです。自分のために命まで投げ出してくださる主イエスを否定してまで自らの力で安全を確保するのは、幸せな生き方なのでしょうか。その後のペトロにあったのは、このうえない後悔でした。またこの歩みの先にある最後の審判において、自らが拒否した主イエスの恵みの言葉を期待することはできません。神が必ずそうされるということではなく、「主イエスを知らない」と言ってしまうわたしたち自身が、主イエスの恵みに期待することができない不安の中に生きざるをえないのです。
結局のところ、今日の箇所においてわたしたちが究極的に問われているのは、何を命綱として生きているか、です。主イエスキリストを命綱とするか、それともこのお方を否定してまで自らの力を命綱とするか、です。道は二つに一つです。中間の道はありません。そして自分の力に頼ったとしても、その力はたかが知れています。欠けや弱さがあり、死を超える力はありません。しかし主イエスを命綱として生きるとき、そこには確かな守りがあります。このお方は、父なる神の御前で「お前はわたしの仲間だ、大丈夫だ」と言ってくださるお方です。死を超えた確かな守りが、そこにはあります。このお方こそ、わたしたちの確かな命綱です。そしてこの確かな命綱が与えられているのは、すでに救われたわたしたちだけではありません。弱さの中にある人々にも、不完全な自らの力に頼って生きざるを得ない人々にも与えられています。この人々に、キリストこそ死を超えてわたしの仲間でいてくださるお方であると告白しながら生きてまいろうではありませんか。これこそ、主イエスの仲間であるわたしたちに与えられた生き方です。