2025年9月7日礼拝説教「何を恐れて生きるか」

聖書箇所:マタイによる福音書10章26~31節

何を恐れて生きるか

 

 主イエスは人々に教えを宣べ伝えるために使徒たちを任命され、彼らを各地に遣わそうとされています。直前の箇所では、遣わされた先において彼らが受けることになる迫害を予告されました。イエスの福音を覆い隠そうとする人々です。主イエスは、この人々を恐れてはならないと命じられます。覆われているもので現されないものはなく、隠されている物で知られずに済むものはないからです。では、すべてのものが明らかになるのはいつでしょうか。主イエスが再び来られて世が完成する終末のときだと理解するのが一般的です。ならば使徒たちと後の教会は、何もせずに終末のときを待つべきでしょうか。そうではありません。主イエスは、命じられます。わたしから暗闇で言われたことを明るみで言えと。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めよと。つまり福音を宣べ伝える使徒たちや教会の働きは、終末の世の完成に参加することなのです。世を完成される神の働きにあなたがたも加われと、主イエスは促しておられます。

 しかしこの働きには、迫害と危険が伴います。それは直前の箇所で示されているとおりです。そこで大切なことが28節の言葉です。使徒たちを迫害する人々は、体を殺しても、魂を殺すことはできません。この人々を恐れるのではなく、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよと、主イエスは言われます。終末の裁きの審判者であられる全能の神こそ、魂も体も滅ぼすことのできるお方であり、わたしたちが恐れるべきお方です。体を殺すという表現によって、使徒たちや後の教会から殉教の死を遂げる者が出ることが示唆されています。とはいえ、魂まで殺すことのできる方を恐れて、死の危険を顧みずに殉教すればよいのではありません。ここにはより深い神の御心が示されています。

 まず魂と体について、聖書の観点から理解する必要があります。聖書は、人間の体と魂を分離できない一体的なものとして描いています。ですから迫害者は、人間存在全体のうちのある一部分を殺すことはできます。それは生物学的な命かもしれませんし、財産かもしれません。わたしたちの持っている大切な何か、あるいは親しい人とのつながりかもしれません。しかし彼らは、人間存在全体をすべて殺すことはできません。それができるのは、わたしたちを造られ、最後の審判の審判者であられる全能の神をおいて他にありません。

 わたしが神学生のときに、牧師が人を殺すのは簡単だと言われたことがあります。牧師は人々に神を示す存在です。その牧師が、「あなたは神に見放されている」と言えば、その人は存在意義を失います。それはある意味で、単に体だけを殺す殺人以上のことです。魂も体も、人間存在全体を危険にさらすことができてしまいます。このようにして牧師が簡単にそれができてしまうのは、神が魂も体も、人間存在全体を滅ぼすことのできるお方だからです。まことに恐るべきお方であられます。

 このような魂も体も滅ぼすことのできるこの恐るべき神が、どのようなお方であるのかが、29節以下で記されています。雀は、二羽でようやく一アサリオンの値が付くほど安いものです。そのうちの一羽すら、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはないのだと主イエスは言われます。30節の髪の毛のお話もまた、父なる神がわたしたちにどれほど目を留めてくださっているかが示されています。これらのお話の帰結として、主イエスは31節の励ましの言葉をかけられます。わたしたちが恐れるべきお方は、確かにわたしたちの体も魂も地獄で滅ぼすことのできるお方です。しかしこのお方は御独り子キリストを十字架にかけることをよしとされるほどに、価値ある存在としてわたしたちに目を留めてくださっています。そのような愛の眼差しでわたしたちを見つめてくださっているお方が、終末における審判者であられます。それは世で苦しみながら終末へと向かうわたしたちにとって、大きな励ましです。

 そのうえで、神にお仕えして御言葉を宣べ伝えるわたしたちが、すべての恐れを排してよいわけではありません。魂も体も滅ぼすことのできる方を恐れよと主イエスは言われます。もちろんわたしたちは、このお方に恐怖心から仕える必要はありません。しかし同時に、わたしたちがこのお方に背を向けるならば、もはや何の希望もないという事実にも目を留めたいのです。十字架の主イエスキリストを失えば、わたしたちは体も魂も滅びるしかありません。人々から嫌われ迫害されようとも、財産が失われようとも、希望は失われません。しかし、わたしたちを価値あるものとして目を留めてくださる父なる神とキリストに背を向けるならば、そこに希望は残りません。恐れとは、恐怖だけではありません。これを失ったらまずい。この人に見放されたらと思うとゾッとする。これもまた恐れです。そのような恐れを、わたしたちは恵みの神に対して持ち続ける必要があるのです。もちろんわたしたちが罪を犯したとしても、神がわたしたちを見放されることはありません。しかしわたしたちがこの恵み深い神に背を向けて見るその風景に、もはや希望はありません。それはまさに自らの人間存在全体の危機です。

 

 このように、神を背にすることに対する恐れを、神に仕えるわたしたちは持ち続けなければなりません。この恐れがあるからこそわたしたちは、わたしたちを愛してやまない父なる神に、そしてわたしたちのために命を投げ出してくださった十字架のキリストに、目を向け続けることができるのです。揺るぎない愛と希望をくださる父なる神と御子キリストに目を向けながら、終末の世の完成へと向かう歩みを進み続けようではありませんか。