2025年8月31日礼拝説教「神が示されたからには」

聖書箇所:創世記41章37~45節

神が示されたからには

 

 兄弟からの恨みを買っていたヨセフは、兄たちに夢を語ったことをきっかけにエジプトに奴隷として売られることとなりました。そこでの彼の歩みは、理不尽と不幸の連続でした。しかし今日の箇所で彼は、エジプトという大国においてファラオに次ぐ地位に引き上げられることになります。言うまでもなく、それは喜ばしいことです。わたしたちの歩みにおいても、ときに驚くべき喜びが与えられることがあります。わたしたちは理不尽や苦悩に対してはその意味を考えるのですが、喜びの出来事に関してその意味を考えることは少ないように思います。神に従うわたしたちに対するご褒美であるかのように、安易に考えがちではないでしょうか。果たしてそれで良いのでしょうか。この御言葉から共に考えたいのです。

 不遇の境遇にあったヨセフがファラオに次ぐ地位となったきっかけは、彼がファラオの夢を解いたことでした。この物語における夢とは、神のご意志の表れです。ヨセフはファラオの夢を解き、エジプトに7年間の豊作ののち、7年間の飢饉が起こるという神のご計画を伝えます。それが神による決定事項であることを、ヨセフは強調しています。ならばもはや人の計画や努力は無駄なのでしょうか。そうではありません。神のご計画示されたからこそ、それを前提とした人間の計画や努力が必要性であるとヨセフは語ります(33〜36節)。神のご計画の上に、わたしたちの計画と努力を重ねていくことが必要なのです。

 この言葉を聞いたファラオはヨセフに神の霊が宿っていることを認め、彼にエジプトの全土を治めさせることにしました。これ以降41節から45節まで、ひたすらヨセフの就任式の様子が記されています。ここで彼に王の支配権が与えられ、人々からも支配者として認められ、婚姻においても支配者としての正当性が与えられます。彼は、名実ともにエジプトの支配者となりました。神の民であるヨセフが不遇の境遇から抜け出し、驚くべき栄光を受けたことは、同じ神の民であるわたしたちにとって希望の出来事と言えます。ただしこのことの意味をどう理解するかは重要です。ここで注目したいのは、ヨセフがどのような人物として描かれてきたかという点です。彼が兄弟から恨みを買ったのは、彼自身の行動にも原因がありました。彼もまた欠けある人間です。ですから彼が高い地位に引き上げられたのは、決して彼が立派に神に従い抜いたことの報いではありません。この物語におけるヨセフは、夢に示された神の言葉を伝える人として描かれています。神の言葉を伝えるためには、神の言葉に信頼しなければなりません。御言葉と神のご計画への信頼なくして、夢の解き明かしなどできません。ヨセフ自身は決して立派で優秀だったわけではありませんが、神の言葉に信頼する人でありました。それが創世記の描くヨセフの姿です。

 このように、御言葉に信頼するヨセフがエジプトの支配者とされました。ヨセフが見出されたとき、ファラオは彼に神の霊が宿っており、神がヨセフにこれらのことをみな示されたということを認めています。ヨセフを任命するにあたって、ファラオは主導権を持っていません。彼は示された神のご意志を追認しているに過ぎません。ここにおいて主導権を持っておられるのは、どこまでも神であられます。神は自らの主導権をもって、ご自身の言葉に信頼するヨセフを支配者へと導かれたのです。裏を返せば、このような神の言葉に信頼する人の支配を通して、神はエジプトにご自身のご支配を実現させたのです。

 今日のお話は決して、神に従った人が報いを受けたという、個人的で小さな物語ではありません。この地上における神のご計画とご支配がどのように実現するかという、非常に大きく、かつ驚くべき神の御業が示されています。そこにおいて用いられるのは、能力のある人や立派で完全無欠な信仰者ではなく、神の言葉とそこに示された神のご計画に素朴に信頼する人です。そのような人をとおして神は、この地上に神のご支配を実現されます。その筆頭が、わたしたちの救い主、主イエスキリストであられます。このお方は十字架の死に至るまで従順であられたほどに、神の言葉に信頼して歩みぬかれました。このお方をとおして、この地上における神のご支配が実現しました。このお方のご支配をとおして、神のご支配は実現します。このお方のご支配は、上から弱い者を虐げて命を奪うものではありません。十字架に至るまでへりくだられることによって罪人を救い、命を守られるご支配です。わたしたちもまた、このキリストのご支配のもとに救われたのです。

 

 そして神は、キリストのご支配のもとに置かれたわたしたちをも召して、命を救われる神のご支配を、この地上に実現されます。それが御言葉に示された神のご計画です。そのために用いられるわたしたちに必要なものは、神の言葉に聞き、この御言葉に信頼して歩むことです。この一点において神は、わたしたちをも神のご支配をこの地上にもたらす者として召し出してくださいます。この神のご支配の実現において、この世の権力者や支配者はすでに脇役でしかありません。御言葉に信頼して歩む者を、神は御自身のご計画とご支配を実現するものとして任命してくださるのです。能力のあるなしは関係ありません。若者か年老いているかも関係ありません。世の成功者であるか否かも関係ありません。御言葉に信頼する人々を用いて、神は救いの御支配と救いの御業を実現されます。この神の大きなご計画の中でわたしたちもまた、この場所で、今、聖書に記された神の言葉に聞き、この言葉に信頼してここから歩みだすのです。こうして神はわたしたちをも、ご自身の偉大なご支配を実現する栄光ある者として用いてくださるのです。