2025年8月17日礼拝説教「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

聖書箇所:マタイによる福音書10章16~25節

蛇のように賢く、鳩のように素直に

 

 主イエスは今、御自身がお選びになった使徒たちを遣わそうとしておられます。彼らを遣わすにあたって主イエスは、遣わされた先で起こる苦難を今日の箇所で予告されています。この内容は使徒たちだけでなく、後の教会が受けるであろうことも含まれています。

 今日の箇所は大変心強い言葉から始まります。わたしはあなたがたを遣わす。神の子であられる主イエスキリストが遣わしてくださいます。王や皇帝など絶大な権力を持つ人に遣わされた人は、王や皇帝の代理として人々から敬われるのが当然です。しかし主イエスは、神の子としてのご自身の権威をゆだねて使徒たちを遣わすことを、狼の群れに羊を送り込むようなものだ、と語られています。遣わされた羊が食い殺されかねない、非常に緊迫した状況が予見されています。

 だからこそ主イエスは、蛇のように賢く、鳩のように素直になれと命じておられます。創世記の最初で、知恵をもって人を誘惑したのは蛇でした。それゆえに蛇は、否定的な印象で受けとめられがちです。しかし今日の箇所で主イエスは、蛇のように賢くあれと命じられます。世をうまく立ちまわっていく知恵が、主に遣わされる者には必要なのです。すべてを神にお任せすれば何もかも守られるといったような、現実を無視した無邪気な信仰ではだめなのです。使徒たちが遣わされるのは、それが通用するほど、のんきな世界ではないからです。同時に主イエスは、鳩のように素直になれとも命じられています。これは他者を全く疑わないという意味の素直さではなく、他者から非難されるところがないという意味での素直さを指します(フィリピ2:15参照)。他者から非難されるような隙や汚点があれば、あっというまに責められてしまうからです。

このような厳しい世界へと、使徒たちは遣わされようとしています。その先で起こることが、17節以降において明かされています。「総督や王の前に引き出され、彼らや異邦人に証しをする」というのは、イスラエルの失われた家に遣わされる使徒たちではなく、後の教会が経験することが先取りして語られています。そのときは、何をどう言おうかと心配してはならないと主イエスは言われます。そのときには、言うべきことは教えられるからです。逆境の中で権力者たちや異邦人に証しをする主体は、遣わされた者自身ではなく、その人のうちに働く父の霊なのです。

 21節からは、使徒たちや後の教会が遣わされる世界の姿が、より明確に語られていきます。親密な関係であるはずの兄弟間、親子間ですら対立し、互いに殺し合う。それほどまでに関係が壊れてしまっている世界に、使徒たちや教会は御言葉を携えて遣わされます。ゆえに遣わされた者がすべての人に憎まれるのは、当然のことです。ですから耐え忍ぶこともまた、必然です。御言葉を語って、何の反発もなしに人々が受け入れて救いが実現することはあり得ません。そして22節で主イエスは、迫害にあった際の極めて現実的な対処方法を命じています。一つの町で迫害された時は、他の町へ逃げよ。それは使徒たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来るからです。つまり主イエスが来られる時まで、御言葉を信じない人々がおり、迫害も続くのです。

 このことは、続く24節と25節にもつながります。弟子と師、僕と主人。それは主イエスに遣わされる者と、主イエスとの関係を表しています。これは迫害の中にある弟子や僕が、師や主人である主イエスキリストにまさるものになろうとすることへの戒めとして理解できます。キリストの権威を帯びて遣わされた自らが、迫害をはじめとした御言葉に反した困難な状況をあたかも全て解決できるかのように勘違いしてしまうことがあるのです。しかし主イエスの言葉を聞きながらもなお、信じなかった人々がいます。あろうことかこのお方に、ベルゼブル(蝿の王)と罵声を浴びせかけた人々もいました。その理不尽の中で歩まれたのが、わたしたちの師であり主人であるキリストというお方です。

 師であり主人であるキリストがその扱いを許容されたのであれば、その弟子であり僕であるわたしたちもまた甘んじでそれらを許容すべきでしょう。いたずらに立ち向かい、一方的に批判し、理想の世界を追い求めることによって主人にまさるものになろうとしてはならないのです。というよりもわたしたちは、主人にまさるものにならなくてよいのです。理想が低い、意志が弱い、妥協的だと言われるかもしれません。しかし主人であられるキリストがそれを許容されたのですから、その僕であるわたしたちもまた許容すれば良いのです。迫害は、世の終わりまでやむことはありません。キリストを信じる者への無理解や理不尽は、なくなることはありません。それらは当然あることなのです。わたしたちが遣わされるのは、そのような理想とかけ離れた世界です。その中でわたしたちなすべきことは、現実を無視した無邪気な信仰を振りかざして、理想を追い求めることではありません。蛇のように賢く現実を見つめ、知恵を尽くしてキリスト者として歩むことです。そして鳩のように素直に、恥じることなく歩むことです。主イエスに従うものは、主イエスの名によって批判されなければなりません。自分の行いを批判されては、証しできるものもできないでしょう。

 

 蛇のように賢く、鳩のように素直に。どこまでも主イエスの弟子として、主イエスの僕として、ここから遣わされてまいりましょう。そしてこの厳しい世界に、主の救いの御言葉を宣べ伝えながら、共に生き抜いてまいろうではありませんか。