聖書箇所:マタイによる福音書10章5~15節
平和は誰のところに
直前の箇所において、主イエスは十二人の弟子たちを使徒に任命されました。この使徒たちを遣わされるにあたって、主イエスは様々な命令をお与えになられました。主イエスに遣わされて働きをなす者は、主イエスの望まれるように働く必要があります。そうでなければ、主イエスのために働いているつもりで、そうではなかったという事態になりかねません。
主イエスはまず、異邦人の道やサマリア人の町ではなく、イスラエルの家の失われた羊のところへ行けと命じられています。主イエスの教えを宣べ伝えるべきでない人々がいるかのようです。一方でマタイ福音書の最後で主イエスは、すべての民への宣教を命じられます。一見すると矛盾しているように見えます。ここで押さえておくべきことは、一般的なユダヤ人は異邦人やサマリア人のところに好き好んでは行かないという点です。ですから、このご命令をとおして、少なくとも主イエスは異邦人やサマリア人と好意的な関係を結んでいたことが示唆されます。主イエスの弟子たちが異邦人やサマリア人のところに行っても、好意的に受け入れられることが期待できそうです。対してイスラエルの家の失われた羊はどうでしょうか。その中には、主イエスに反対するファリサイ派の人々や律法学者がいます。すべてのユダヤ人が敵対的だったわけではありませんが、好ましくない態度を取られそうです。わたしたちはどこかで、自分に好意的な人々や自らを受け入れてくれそうな人々のところに好んで行き、自らの安全を確保しようとしています。それを主イエスは戒めておられるのです。
このような、自らの安全を確保しようとすることへの戒めは、8節後半以降にも表れています。ただで与えるといっても、報酬の受け取りを否定しているわけではありません。重要なのは順番です。主イエスは、先にただで与えるようにと命じられます。働く者からすれば、先に報酬をもらってから与えるほうが安全です。報酬を取り損ねる恐れがないからです。しかしそれを主イエスは戒められます。自らの安全を確保しようとすることへの戒めは、9~10節の持ち物への制限においても見られます。主に仕えるということは、安全が十分に確保されないまま、清水の舞台から飛び降りるように行うという側面が、必ずあるのです。
11節からは、使徒たちが町や村に入ったときになすべきことが指示されています。見ず知らずの人の家に留まるのは勇気がいります。使徒たちは十分なお金も持っていなかったでありましょうから、その家の人々の善意に頼るしかありません。使徒たちが渡すことができるものは、「平和があるように」という挨拶によって示される平和ぐらいです。それが家の人々に受け入れられるか否かは不透明です。その家の人々がそれを受けるに相応しければ、その平和は彼らに与えられ、相応しくなければその平和は使徒たちに返ってきます。主の平和に相応しくない人々。それは具体的には14節にあるような、使徒たちを迎え入れもせず、言葉に耳を傾けようともしない者です。
ここで使徒たちを迎える家の人々の立場に立って考えてみましょう。見ず知らずの使徒たちを迎え入れることは、その家の人々にとっても危険なことです。使徒たちを迎える人々は、危険を承知で、なおも使徒たちを迎え、使徒たちの語る神の言葉に耳を傾けた人々なのです。自らの安全をあえて手放して使徒たちを受け入れた人々に、主の平和は与えられます。一方使徒たちを迎え入れなかった家の人々とは、自らの家の安全を最優先にしたのです。しかし自らの安全を最優先にしたこの家には、主の平和は与えられません。かえって平和とはほど遠い結末に至ります。
平和という言葉を聞きますと、わたしたちは真っ先に自らの安全が確保された状況を思い浮かべるのではないでしょうか。今は余裕のない世の中ですから、多くの人々が自分の安全を優先し、それによって自らの平和を確保しようと必死です。国家のレベルでも同様です。ゆえに軍隊増強の必要性が叫ばれて、排他主義を掲げる政党が躍進し、安全を脅かす他国を攻撃することが正当化されています。すべては自らの平和のためです。一方主イエスは使徒たちに、自らの安全を最優先にする行動を戒めておられます。かえって、自らの安全を顧みず使徒たちを受け入れた家の人々にこそ、主の平和が与えられると語っておられます。主イエスの平和は、自らの安全を最優先にした先に実現する平和ではありません。誰かのために、あえて自らの安全を手放して痛みを負うことを許容する先に実現する平和です。この平和への歩みの先頭にたってくださったのが、主イエスキリストです。このお方は、打ちひしがれたわたしたちのために、あえて安全な天から下られました。あえて十字架で痛みを負われました。そこに主イエスの平和は実現しました。
今年も8月に入り、特に平和を覚える月となりました。かつて日本が戦争にまい進したのは、自らの安全を最優先にし、自らが痛みや不利益を被ることを許容できなかったからではなかったでしょうか。そして平和とはほど遠い状況に至ったのです。そして現代社会を見るとき、戦争にまい進したかつての日本と同じような空気を感じます。ひたすらに自らのリスクを回避し、誰かのために痛みを負うことを避け、自らの安全を最優先にしようとしています。しかしその先に、平和はありません。主イエスに遣わされた働き手は、そうであってはならないと主イエスは戒めておられます。主イエスの遣わされる働き手。それは主イエスのために、そして誰かのために、あえて自らの安全を手放す人々です。誰かのために、ときに理不尽な痛みをも辞さない人々です。そのような人々に、主の平和は与えられます。この平和の道を、共に進みゆこうではありませんか。