聖書箇所:創世記41章1~16節
わたしではなく神が
この物語において神は「夢」をとおして御心を伝えられます。それゆえに夢の解き明かしもまた、神の言葉としての性格を持ちます。直前の箇所においては、神の言葉が実現して元の職務に戻ったはずの給仕役の長がヨセフのことも彼が解き明かした神の言葉も忘れてしまったことが記されました。それから二年後に起こったことが、今日のお話です。
この物語は、ファラオが二つの夢を見たことから始まります。この夢を見たファラオは、朝になってひどく心が騒ぎました。彼がここまで動揺したのは、この人がエジプトの王であったことに関係しています。当時のエジプトは、文明の先端を行く超大国です。この当時の水準で考えるならば、この国では多くのものを意のままにできました。そしてファラオはその国の王として、それらを支配する立場にありました。彼は、世の中の大半を意のままに支配できる立場にありました。そのファラオが、夢を見ました。ファラオといえど、夢はただ見ることしかできません。しかもこの夢は、ナイル川から何か不吉なものが出て食い尽くす、というものです。この夢は、何かの災いを予感させるものでありました。しかも彼はそれを自らの力で支配できません。それが、ファラオの動揺の大きな原因です。そこでファラオはエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話しました。こうして彼は、神のご意思である夢をも自らの支配下に置こうとしました。大半のものを支配できるファラオであったからこそ、意のままにならないことに対する恐れがありました。それゆえ夢の解き明かしのために、エジプトの全土から魔術師と賢者が呼び集められました。文明の最先端をゆくエジプトの知恵と技術を総動員して、神のご意志である夢に挑みました。しかし解き明かすことができる者はいませんでした。
ここで例の給仕役の長がファラオに申し出ます。ヨセフのことを思い出したからです。そこでファラオはヨセフを呼びにやりました。ヨセフは直ちに牢から出され、身なりを整えられて王の前に出ました。ファラオにとってヨセフは、牢から出されたばかりの囚人に過ぎません。地位の差は圧倒的です。ゆえにファラオはヨセフを、自らの夢を自らの支配下に変えてくれる者として見ています。それに対してヨセフは、夢を解き明かすのはわたしではなく、神がファラオの幸いについて告げるのだと、宣言します。このあとヨセフはファラオの夢を解き明かします。しかしそれをなしたのは、ファラオの支配下にあるヨセフではなく、全世界を治めておられる全能なる神です。したがってヨセフから夢の解き明かしがなされても、神のご意志である夢と、解き明かしとしての神の言葉は、依然としてファラオの支配下にはありません。彼はただ、それら聞いて受け入れるほかありません。神のご意志、神の言葉。これらはどこまでも、神ご自身の支配と権威のもとにあります。人に支配されない神の言葉だからこそ、それらは人知を超えたまことの幸いを告げる言葉なのです。この「幸い」は、シャロームすなわち平和を意味する言葉でもあります。
ここからエジプトの王であるファラオが、主なる神の言葉に直面していくことになります。偉大なエジプトの王たるファラオや、それを支える技術や知識をも、御言葉を支配することはできません。それから数千年の時を経た現在、科学技術は発展し、知識は蓄積されました。今日記されているファラオよりも多くのものを、わたしたちは自らの支配下に置いています。だからこそ、自らが支配できないものに対する恐れが強くなっているのではないでしょうか。例えばそれは、利害の対立する他国の人々、先行きの見えない将来、宗教や神、そして何よりも死です。これらを自らの支配下に置こうと、多くの人々が必死になっています。このような取り組みから科学が発展し、知識が蓄えられ、人の命や営みが守られ悲惨が解消されてきた面があります。しかしそのような営みだけで、人は幸せになり平和が訪れるわけではありません。自らが支配できる領域を拡大することだけに注力する歩みは、かえって自らが支配できないものに対する恐れを深めることになります。
ならば、幸いと平和はどこから告げられるでしょうか。それは神のご意志であり、それを伝える神の御言葉であり、その中心にあるキリストの十字架と復活に示された神の愛です。それらは人間の支配下に置かれることは決してありません。それらはわたしたちの意のままになるような薄っぺらで小さなものではありません。それらは、わたしたちが「こうあってほしい」と思う願望を超えた言葉です。それゆえに真に神の言葉を聞き、キリストの十字架を受け入れようとするときに、それらが自らの意のままにならないことを覚悟しなければなりません。それはわたしたちにとって危険を伴いますし、勇気がいることです。自らの意のままになることを受け入れる方が、見通しが立ちますし安心です。その方が安全であり、常識においても受け入れられやすいのです。それに対して、わたしたちの意のままにならないキリストの十字架とそこに示された神の愛に生きようとするならば、自らの望まないことをあえて受け入れることが必要です。時には自らのしたくないことをしなければなりません。「敵を愛せ」と言われた主イエスの言葉が、その典型でしょう。
しかしそれでもなおわたしたちは、自らの望みや支配の外側にある神の言葉に聞き従う者でありたいのです。そこにこそ、神の語ってくださる真の幸いと平和が告げられていくからです。勇気をもって、わたしたちの意のままにならない神の言葉に生きてまいりましょう。そして神の告げてくださる真の幸いと平和のうちに、歩んでまいろうではありませんか。