聖書箇所:マタイによる福音書10章1~4節
主イエスが選ばれた弟子たち
直前の9章の最後において主イエスは、収穫が多いにもかかわらず働き手が少ないことを指摘されました。そしてご自身の弟子たちに、収穫のための働き手を求めて祈るようにとお命じになられました。そのうえで主イエスは十二人の弟子たちを呼び寄せられ、ご自身の権能をお授けになられました。収穫の主に働き手を願った弟子たちを、主イエスは実際に働き手として派遣されます。この働きがいったいどのような性格のものなのかを、今日の箇所から読み取ることができます。
この箇所は短いながらも、いくつか特筆すべき言葉が記されています。まずは「十二人」です。これは旧約時代の神の民であったイスラエルの十二部族と同じ数です。ゆえに十二人の弟子たちは、神の民の共同体である教会を象徴しています。この十二人の弟子たちに、主イエスは自らの権能をお授けになられました。主イエスがこれまでなされてきたように、病気や患いの中にある人々の所に行って寄り添い、その重荷を担っていく権能です。それを主イエスは十二人の弟子たちに、そして彼らが象徴しているキリストの教会にお授けになられたのです。この権能が主イエスの権能であるという点も押さえておくべきでしょう。それは個々人が努力して獲得した権能ではなく、どこまでも恵みとして主イエスに授けられたものです。
2節からはこの権能を与えられた十二人の使徒たちの名前が挙げられています。「使徒」もまた注目すべき言葉でしょう。遣われた者を意味します。使徒と聞くと、それだけで立派な信仰者という印象を受けるかもしれません。けれども主イエスに権能を授けられた者が、主イエスに遣わされるわけですから、その働きはどこまでも受動的です。主に召されて、それに応えて働きをなす。それが主イエスに任命された十二使徒であり、教会の姿なのです。では主イエスは、どのような人々を働き手に選ばれたのでしょうか。人を選ぶことは、いつの時代にもとても難しいことです。会社の人事がその典型です。それがうまくいくかどうかで、会社全体が立ちも倒れもします。難しいといえども主イエスがなされた人選ですから、すべてが円滑に進むような、さぞ素晴らしい人事配置がなされたのだろうと我々は期待します。しかし主イエスの選ばれた使徒たちを見ますと、疑問に思う点がいくつもあります。まず主イエスが選ばれたのはペトロと呼ばれるシモンでした。「まず」という言葉によって、彼が十二人の使徒たちのリーダーであったことが示唆されています。しかし彼は、後に主イエスにサタンと言われるほど叱責され、主イエスを知らないと言った人物です。彼に使徒のリーダーとしての資質があったのかは疑問です。また徴税人のマタイと熱心党のシモンが、共に選ばれています。徴税人と熱心党は犬猿の仲です。とても協力して一緒に働くことのできる関係ではありません。またここで挙げられている十二使徒には、その後の動向がよく分からない人も少なくありません。そして極めつけが、イスカリオテのユダです。自分を裏切るような人を自らの側近にする。人選としては完全にアウトです。
このように主イエスの人選には疑問が残る点が多々あります。一方で彼らを教会の象徴として見るときに、納得できる面もまた多いのです。欠けを持つ人が、教会のリーダーとして召されます。犬猿の仲である人々が、それでも同じ教会のメンバーとされます。目立たない方々もまた、教会にはたくさんいます。そして事実として、教会を裏切るような方、すなわちこの人はいない方がいいと思うような方々が教会に集うことも珍しくありません。このような教会の姿は、わたしたちが思い描く教会の理想像とはまったく異なります。想像してみてください。完璧な信仰者であるリーダーに導かれ、全員が教会のために熱心に働き、一切の意見の対立や喧嘩はなく、足を引っ張るような人は誰もいない教会。それはわたしたちが望む理想的な姿です。一方でそのような教会には、主イエスが権威を授けられた十二人の使徒たちの姿はありません。わたしたちが理想的だと思う教会の姿と、主イエスがご自身の権能を与えて建てあげられる教会の姿は、必ずしも一致しないのです。キリストの教会は、欠けや弱さのある者がリーダーとなり、目立たない人々が用いられ、意見の対立があり、この人はいない方がいいと思うような人も一緒に集う教会なのです。
今は、教会にとって大変厳しい時代です。かつては教会に多くの方々が与えられて成長し、財政的な余裕があり、子供たち若者たちが多くいて、奉仕者にも恵まれていました。わたしたち自身も今よりは若く健康であり、たくさんの奉仕をし、献金もいまよりささげることができたのかもしれません。しかし十二人の使徒たちを任命されたキリストの視点から見ると、弱さを知り不足を知る今の教会のほうが、むしろキリストの任命された十二人の使徒たちの姿に近いように、わたしは思うのです。弱さや痛みを知る欠けある人々をこそ、主イエスは自らの働き手として選ばれ召されるのです。問題があり対立があり都合の悪い人々が集う教会にこそ、主イエスはご自身の大いなる権能をお授けになられ、働き手として召されるのです。こうしてわたしたちも、働き手として召されています。理想的でなくてもよいのです。不足があってもよいのです。目立たなくてもよいのです。それでも主のために仕えて、主の御業を人々に届ける働き手として召されていく。そのところにこそ、キリストの権能を授けられる教会は建てあげられていきます。その権能とは、飼い主のいない羊のように生きる意味を失い、打ちひしがれている人々に寄り添い立ち上がらせる権能です。この偉大な主イエスキリストの働きをなす主の教会を、共に建てあげてまいろうではありませんか。