聖書箇所:マタイによる福音書9章35~38節
収穫のための働き手
長く信仰生活を送られてきた方であれば、なじみのあるお話でありましょう。特にこの箇所は、これから牧師になろうとする方が候補者としての誓約をなす際に読まれる御言葉でもあります。主イエスが働き手を求めておられます。この求めに応じる一つの行為が、牧師となるという意味での献身です。そしてこのような献身者が起こされ続けるべく、諸教会で切なる祈りがささげられています。ただこの箇所は、あまりにも「牧師になる」という意味での献身だけに限定して理解されていないでしょうか。牧師になる召しが与えられて献身するのは、キリスト者のなかでもごく一部に過ぎません。ならば大半の人々は、ひたすらに献身者が起こされるべく祈ればよいのでしょうか。ここにはもっと深い、主イエスの思いが込められています。
まず35節では、主イエスご自身が懸命に働いておられる様子が記されています。これまで主イエスの癒しの奇跡が記されてきました。それは主イエスの働きの中心ではありません。あくまで会堂で教え、御言葉の福音を宣べ伝え、そのなかで病気や患いをいやされたのです。そしてこの35節の一文で中心をなしている動詞は、「残らず回って」です。主イエスはあらゆる人々の所に行かれ、その人々に寄り添われました。約束された救い主であられる主イエスは、打ちひしがれた人々のところに来てくださるお方です。だからこそ主イエスは、36節で人々が置かれているこの現状をご覧になられ、そして深く憐れまれたのです。
主イエスが群衆を深く憐れまれたのは、彼らが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているからでした。「飼い主のいない羊」という言葉は、旧約聖書を踏まえた表現です。関連する箇所をいくつか挙げることができます。例えば民数記27:16~17やイザヤ53:6などです。これらを踏まえるとき、「飼い主のいない羊」という言葉が、単に病気で苦労していたとか、貧困にあえいでいたというような、表面的な問題を指しているのではないことが分かります。それは何よりも、自らの生き方を導く存在の喪失です。人々は何を指針とし、どう生きたらいいか分からないのです。そもそも自らが何のために存在し、生きているか分からないのです。
本来神の民である彼らの羊飼いは、主なる神であられるはずです。そして神の羊である彼らには、聖書の御言葉をとおして生きる指針が与えられていたはずです。しかし人々はそれらを失っていました。聖書を重んじる人びとはいたのです。けれどもそれらが曲解され、それによって弱い立場の人々が苦しめられている現状を、これまでの箇所ですでにわたしたちは見てきました。その結果、生きる目的を見出せない虚無感のなかで、人々は生きていました。誰もが羊飼いである神を失っており、生きる指針である御言葉を失っているのです。
このような人々を見た主イエスは、彼らを深く憐れまれました。そして、弟子たちに、働き手を送ってくださるよう祈るよう命じておられます(37,38節)。ここで主イエスは、「収穫は多い」と言われています。この言葉は、御言葉を伝える働き手さえいれば、多くの人々が神のもとへと立ち帰る、という楽観的な意味で理解されることが多いように思います。もちろんそのような意味も含まれているでしょう。けれどもそれ以上にこの言葉には、時の切迫性が込められています。今まさに収穫を始めなければならないという危機感です。農作物は収穫できる時期は決まっています。時期を過ぎれば、その実が収穫できないだけでなく、木が弱り、最悪枯れてしまいます。主イエスは打ちひしがれた目の前の人々をご覧になりながら、収穫のことを語っておられます。ゆえに収穫物は、目の前にいるこの人々の命を指しています。今まさに、神なき生き方にあえぎ、その悲惨のなかで危険にさらされている命があります。だからこそ、収穫のための働き手を願う祈りは、大変切迫したものにならざるを得ません。今、このとき、働き手を送ってください。この切なる祈りを、主イエスは弟子たちに求めておられます。そして主イエスはこのように祈る弟子たちを、次の10章で働き手として召されるのです。働き手を切に祈り願うならば、祈る者自身が働き手になることは自然なことです。ここでは祈るわたしたち一人一人の、その祈りの真剣さが問われています。働き手を求めて切に祈るならば、祈る者自身がまず収穫の働き手として献身へと導かれるはずなのです。
ただしここで言う献身は、牧師になるという狭い意味で捉えるべきではありません。これから弟子たちに求められていくのは、36節で主イエスがなされていた働きです。その中心は、「残らず回る」ことです。すなわち打ちひしがれている人々のところに行くことです。あるいは心を寄せ、痛みを共有することです。そのような関係のなかでこそ、聖書の御言葉は、神の言葉として受け入れられていくのです。これはわたしが個人的に感じていることなのですが、教会のなかであまりにも牧師の働きだけが特別視されすぎているように思うのです。御言葉を教え語ることは、もちろん決定的に大切な働きではあります。けれどもそれは、多くある神の働きの一つでしかありません。ここにいるお一人お一人にはそれぞれに、神の働きのための賜物が与えられています。誰もが、主イエスのなされた御業を人々に届ける働き手となることができるのです。そして今、混迷の世の中のなかで、生きる意味を見出せず、弱り果て、打ちひしがれている人々が多くいます。ゆえに収穫は多いと、主イエスは言われます。だからこそ主イエスの御業を届ける働き手を、切に祈り求めてまいりましょう。この祈りに、人々の命がかかっています。そしてこの祈りに、わたしたち自身が生きてまいりましょう。