聖書箇所:マタイによる福音書9章27~34節
信じているとおりに
主イエスのうわさを聞きつけた二人の盲人が、叫んで主イエスについて来ました。この叫びは、彼らが強く主イエスに求めている様子をあらわしています。盲人と記されていることから、彼らは目が不自由であることが分かります。しかし彼らの悲惨の中心は、目の見えない症状にあるのではありません。この時代のユダヤ人社会において、目の見えないことは神の罰として理解されていました。旧約聖書には、この理解の原因となりうる箇所がいくつかあります(例えば出エジプト4:11、申命記28:28、サムエル記下5章など)。これらの箇所はいずれもが、目の見えない人々を断罪することを意図してはいません。しかしこれらの御言葉が曲解された結果、二人の盲人は劣った罪人とみなされていたのでした。聖書にある神の言葉が誤って解釈され、理解されることの悲惨が、ここにはあります。
このような悲惨の中にあった二人の盲人は、その解決を主イエスに求めました。主イエスは、神の言葉である律法を完成させるお方だからです。「ダビデの子よ」という彼らの呼びかけの言葉も特徴的です。サムエル記下7章において、救い主はダビデの子孫から生まれることが約束されています。ここから、「ダビデの子」は約束された救い主を指すキーワードとなっていました。聖書で約束された救い主こそが、主イエスである。それが「ダビデの子よ」という呼びかけに示されている盲人たちの信仰です。
28節で主イエスが家に入られると、ついてきた盲人たちはそばに寄ってきました。そこで主イエスは彼らに「わたしにできると信じるのか」と問われます。この問いかけは主イエスが彼らの信仰を知るためになされたのではなく、盲人たちが自分の口で自らの信仰を言い表すためになされたものです。そして「はい、主よ」と言い表された信仰に基づいて、主イエスは二人の目に触り、彼らの目を癒されました。信仰と救い。その密接な関係が、ここで強調されています。同時に、ここから信仰の一つの姿を見ることができます。それは漠然と主イエスが救い主だと信じれば、自動的にあらゆるものが整えられていくものではないということです。自ら信じているところに従って主イエスに求め、その求めに応じて必要が満たされていく。それがキリスト教における信仰の一つの姿です。それは今日の箇所において主イエスが「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われた言葉に端的に示されています。
主イエスは、目が見えるようになった盲人たちに対して「このことは、だれにも知らせてはいけない」と戒めされました。それは主イエスの御業の中心が、この癒しにではなく、後になされる十字架にあったからです。それが人々に十分に理解されていないなかで、癒しの御業だけが独り歩きして理解されていくことへの警戒感が、主イエスにあったと考えられます。しかし二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い伝えました。それは彼らにとって、秘めておくことができないほどの大きな喜びであったからです。それは何よりも、目の見えないことを罪とみなす誤った御言葉の理解からの解放です。
さて、目がいやされた二人の人が出て行くと、今度は悪霊に取りつかれて口のきけない人が連れてこられます。主イエスが悪霊を追い出されると、口のきけない人がものを言い始めました。この癒しを見た群衆は驚嘆します。群衆が主イエスの御業を好意的に受けとめ始めていることが伺えます。その一方でファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い、極めて否定的な反応を示しました。盲人たちとは違い、ファリサイ派の人々は主イエスに何も期待していません。彼らは疑い深かったわけではありません。ファリサイ派は、旧約聖書の言葉を大切にし、それを大変まじめに実行することを重んじていた人々です。それゆえに彼らは、自分たちこそが神の言葉を正しく理解し実践していると自負していました。だからこそ、自分たちを批判する主イエスが奇跡を行うならば、それは神に逆らう悪霊の力によるものである必要があったのです。それは彼らが、自らの信じるところに従って聖書を重んじていたからこそ至った結論です。いわばこれが、彼らの信仰でありました。この信仰に基づいて彼らは後に、主イエスを十字架にかけることになるのです。
「あなたがたの信じているとおりになるように」。この言葉は盲人たちだけでなく、このファリサイ派の人々にも実現した言葉とも言えます。彼らは主イエスの背後に悪霊の力を見ました。彼らは自らが信じるその世界のなかに生きたのです。その結果、キリストを十字架につけるところへと至ることになります。キリスト者に限らず誰もが、自らの信じている世界のなかで生きています。したがって同じ聖書を信じる者であっても、生き方や考え方が大きく違うことがあります。それゆえに大切なことは、主イエスをどのようなお方として信じるかです。主イエスを悪霊の頭の力をふるう者であると信じたファリサイ派の人々の土台にあったのは、事実上、神に一生懸命仕える自分を信じる信仰でした。ときにわたしたちもキリストを、従順に従う者だけを救われるお方として信じてしまうことがあるのです。その信仰の中に生きるとき、わたしたちの生きる世界は大変苦しく厳しいものになるでしょう。しかし聖書に示される救い主は、そのようなお方ではありません。罪人であるわたしたちを救うために、このお方は十字架におかかりくださいました。当たり前とも言えるこの信仰に、今日改めて立ちたいのです。この信仰に基づく世界を共に生きてまいろうではありませんか。そこにこそ、真の幸いのなかで生きる道が、備えられていくのです。