聖書箇所:創世記40章1~23節
忘れ去られた解き明かし
この物語においてヨセフは、夢を解く人として描かれています。自らの夢を解き明かしたことから、彼は奴隷として異教の地であるエジプトに連れてこられました。そこで無実の罪を着せられて、自分が仕えていた主人の管理する牢屋に投獄されることとなりました。それでも主なる神は、彼と共にいてくださいました。こうして彼は牢獄の囚人でありながら、獄中のことを取り仕切るようになりました。この牢獄に、二人の人が投獄されるところから今日のお話は始まります。投獄されたのは、エジプトの王ファラオの給仕役と料理役でした。彼らは王に過ちを犯したために投獄されました。無実でありながら投獄されているヨセフと違い、彼らは投獄されるべくして投獄されたのでした。そんな彼らの身辺を、ヨセフが世話をすることとなりました。
ある日のこと、給仕役と料理役は同じ夜にそれぞれ夢を見ました。しかしその意味が、彼らには分かりませんでした。それゆえに二人ともふさぎ込んでいます。彼らにヨセフは声をかけます(7節)。ここには罪を犯した役人たちと無実のヨセフが同じ境遇に置かれている理不尽さが、あえて記されています。それでもなおヨセフは、彼らに真摯に関わります。そのようなヨセフに、彼らは事情を打ち明けるのでした。ここで夢を解くヨセフの出番が到来します。夢を話すように二人に促すのでした。ここでヨセフは大切なことを語っています。解き明かしは神がなさることではありませんか。この物語における夢とは、主なる神のメッセージを伝える媒体として用いられています。夢の解き明かしもまた、神の御意思であり神の言葉なのです。
そこでまずは給仕役の長が、自らの見た夢を語ります。ヨセフはこの夢の意味を解き明かします。三日経てば、ファラオがあなたの頭を挙げて、元の職務に復帰させてくださる。そのうえでヨセフは、14~15節の言葉を続けます。彼は自らの無実を訴えます。そして、解き明かしに示された神の言葉が実現し、あなたが幸せになったときには、どうかわたしのことを思い出してほしい、ファラオに自らを取り計らってほしい。このようにヨセフは、解き明かしのなかで言葉を続けたのでした。さて、この解き明かしを聞いた料理役の長も、自らが見た夢を語り始めます。そしてヨセフはこの夢も解き明かします。三日たてば、ファラオがあなたの頭を上げて切り離し、あなたを木にかけます。そして鳥があなたの肉をついばみます。料理役の長に対しては、絶望的な内容が語られます。給仕役の長と料理役の長。夢に示された彼らの未来は、真逆といっていいほどに違いました。何が二人の未来を分けたのかは、記されていません。ここで重要なことは、ヨセフによる夢の解き明かしが、20節以降でそのとおり実現したという点です。ヨセフは夢の解き明かしを、神がなさることであると語りました。ヨセフが語った解き明かしは、究極的には神の言葉であり神の御意思です。それゆえに、神の言葉はその通りに実現したのです。神は、自らの言葉を決してないがしろにするお方ではないからです。この神の言葉が実現した結果、給仕役の長は職務に復帰することができ、料理役の長は木にかけられることとなりました。しかし給仕役の長は、ヨセフのことを忘れてしまいました(23節)。その結果、無実であるはずのヨセフが、理不尽にも投獄され続けることになったのでした。彼が忘れたのは、ヨセフとの人間どうしの約束なのではありません。14~15節にあるヨセフのお願いは、夢の解き明かしと一体的に語られています。これもまた夢の解き明かしの一部であり、神の言葉なのです。それを給仕役の長は忘れてしまいました。彼が忘れっぽかったのではありません。復帰直後にヨセフのことを進言して、波風を立てたくない。少なからず、そのような思いがあったはずです。危機が去った彼にとっては、もはや解き明かしそのものがなかったかのようです。この神の言葉の忘却が、本来無実であるはずのヨセフを、理不尽な境遇のまま留め置かせたのです。
今日の箇所には、語られた神の御言葉を忘れることの悲惨が示されています。このような悲惨を生む御言葉の忘却は、御言葉が実現し、危機を脱し、恵みによって幸せになったときに起こります。神の恵みによって幸せになったときにこそ、神の言葉を忘れてしまう。それが、ここにいるわたしたちを含めたすべての人間の罪の現実です。このような人間の姿をとおして、ご自身の言葉を決して忘れることのない神のお姿が立ち上がって来ます。人とは違い、神は決してご自身の言葉を忘れることはありません。この事実は、キリストの十字架において示されています。このお方は、神の民を救い出すという神の言葉を実現するために十字架にかかられました。それは聖書の神が、決して御言葉を忘れることのないお方だからです。どんなことがあろうとも、神は御自身の御言葉を、そしてそこに示された約束を、忘れ去ることなどないのです。
神がこのようなお方だからこそわたしたちは、御言葉に信頼できるのです。わたしたち自身がどれほど罪深かろうとも、そしてどれほどの逆境の中に置かれようとも、神が御言葉を忘れることはありません。この安心のなかで、わたしたちは御言葉に従って生きるのです。それはもはや自分の救いのため、自分の幸せのために生きる道ではありません。キリストの十字架の恵みをいただいたわたしたちはもはや、自らの救いのために一生懸命になる必要はありません。主を信じるわたしたちの救いは、聖書にある神の言葉において約束され、キリストがそれを成し遂げてくださったからです。この恵みをいただいたわたしたちには、御言葉を覚え、そこに示された御心に従って、虐げられた人々に寄り添う生き方が与えられています。そのような者として、御言葉と共に、この一週間を歩みだしてまいりましょう。