2025年6月15日礼拝説教「絶望を希望に」

 

聖書箇所:マタイによる福音書9章18~26節

絶望を希望に

 

 今日の箇所では、困難な状況の中に陥っている二人の人が登場します。ある指導者と、出血が続いている女の二人です。この二人が一緒に描かれている点に、今日のお話の大きな特徴があります。彼らには、異なる点と共通点の両方があります。

 異なる点は両者の地位です。方や指導者です。彼は重要な地位についていました。彼は尊敬され、周りには多くの人々がいました。方や出血が続いている女は、そういった地位にはありません。この時代においては極めて地位の低い女性であり、しかも出血が止まらない病に十二年間も患っていました。生理に関する病だったと考えられます。それは生活の質を大きく低下させる悩ましいものです。しかし病の症状以上に彼女にとって重荷であったのは、この出血が汚れとみなされていたことです。彼女が触れたものもまた汚れると理解されていました。それゆえ周囲の人々は、彼女から距離を取ろうとします。この点で、先に登場した指導者と彼女は、真逆でした。

 その一方で、両者には共通点があります。どちらも絶望的な状況にあるという点です。女性の置かれた絶望的な状況は、説明するまでもないでしょう。そして指導者は、大切な娘がたった今死んだところです。彼の手にしていた地位や人々からの尊敬は、娘の死の現実を前に何の役にも立ちません。彼がそのような地位や名誉を手にしていたからこそ、それらがまったく役に立たないことの無力感はより大きなものであったように思います。絶望的な状況に陥っている点では、地位や名誉の有無は関係ありません。しかしもう一つ、この二人には共通点があります。これらの絶望的な状況のなかで、なおも主イエスキリストに希望を見出していた点です。指導者は、娘が死んだという絶望的な状況にあっても、主イエスが来て手を置いてくだされば生き返ると語っています。一方女性のほうは、十二年間も治らなかった自らの病について、この方の服に触れさえすれば治してもらえると思っていました。「治す」と訳されている言葉は、本来は「救う」という言葉です。彼女にとっての絶望の中心は、病の症状ではなく、周囲の人々から汚れているとみなされていたことです。この状況を抜けだす糸口を、彼女は十二年間もの間全く見出すことができずにいました。この絶望的な状況の中で彼女は、主イエスに救いを求めたのです。こうして絶望的な状況のなかでなおも主イエスを求めた彼女と指導者の二人の人は、主イエスによって驚くべき希望を与えられることになったのでした。

 ところで今日のお話は、マルコ5:21~43とルカ8:40~56にも記されています。これらと比較して、マタイ福音書だけが短いという特徴があります。マルコやルカには、指導者や女性の情報あるいは彼らと主イエスとのやり取りがより詳しく記されています。マタイ福音書ではそれらが大きく省略されています。それはマタイの強調点が、主イエスキリストにあるからです。主イエスがどのようなお方か。それが、マタイ福音書がここで伝えようとしていることの中心にあります。

 このことは、マタイ福音書の流れからも見ることができます。7章までの山上の説教を終えたあとは、一貫して主イエスの権威が示されてきました。今日の箇所もその流れの中にあります。ここに記されている主イエスの権威。それは、わたしたちが自分の力ではどうにもならない絶望を希望に変える権威です。この主イエスの権威が明確になるのが、この方がお受けになられた十字架における身代わりの死と復活です。今日の箇所をとおしてわたしたちは、自らではどうしようもない絶望的な状況を希望へと変えてくださる十字架の主イエスの権威に直面します。わたしたち自身には、今日の女性が置かれていたような、人々から避けられ汚れた者とみなされる絶望を打開する力はありません。まして指導者が直面した、娘の死を前にして絶望している人を救い出す力などありません。しかし主イエスにこそが、あらゆる絶望を希望に変えることのできる権威をお持ちです。

 

 この主イエスの偉大なる権威を認めたのが、今日登場した指導者であり、出血が続いている女性でした。そして主イエスのこの権威を認めなかったのが、24節で主イエスをあざ笑った人々でした。主イエスの権威を認める人びとと認めない人々とのこの反応の違いは、現代においても同じではないでしょうか。主イエスが復活され、死を打ち破る権威をこの方はお持ちであると聖書には記されています。それを認めなければ、このお方をあざ笑うのはむしろ普通の反応です。そしてどちらかと言えば、娘の死を前にして、あるいは十二年間治らなかった病を前にして、なお主イエスに期待している指導者や女性の方が異常でしょう。主イエスに望みを置くわたしたちもまた、周囲の人々から少なからずそのような目で見られています。そしてもしかしたらわたしたち自身も、主イエスへの期待が薄れ、力ないお方であるかのように心のなかであざ笑い、絶望の中に留まってしまうこともあるのです。しかしわたしたちが認めるか否かに関わらず、主イエスは御自身の権威を行使されます。ゆえに絶望的な状況にあっても、わたしたちはこのお方に期待し続けたいのです。わたしたちが周囲からどのような目で見られようとも、このお方は確かにわたしたちの絶望を希望に変えてくださいます。わたしたちが信じ、望みを置いているのは、そのようなお方です。このお方がわたしたちの救い主として、今もわたしたちと共にいてくださり、愛を注ぎ続けてくださっています。わたしたちにはどうしようもない絶望を、希望に変えてくださる。このお方が、わたしたちに与えられています。この喜びと感謝と共に、ここから一週間の歩みを始めようではありませんか。