聖書箇所:マタイによる福音書9章14~17節
時を見分ける
主イエスに批判的な目を向ける人々として今日登場するのが、ヨハネの弟子たちです。ここでいうヨハネとは、主イエスが活動を始められる前に、人々に悔い改めを勧めて洗礼を授けていた洗礼者ヨハネです。このとき彼自身はすでに捕らえられていました(4:12)。弟子たちはヨハネがいないなかで、彼の教えを実践すべく努力していました。その一つが、断食でした。この断食の実践においてヨハネの弟子たちは、「わたしたちとファリサイ派の人々」と並べて語っています。彼らはファリサイ派の人々を、自分たちと同じ理解と実践に立つ人々とみなしています。
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、どのように断食を実践していたのでしょうか。旧約聖書には、断食について記されている箇所がいくつかあります。嘆きの表現として、あるいは神に願い求めることがあるときに、人々は断食しました。それは、神に従う者としての信仰的な実践でした。断食に限らずこのような信仰的な実践は、求められている以上のことをすると、それだけで自らが信仰的になったかのような気分になるものです。これを断食で行っていたのが、ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちでした。彼らは毎週、決まった日に断食をしていました。14節でヨハネの弟子たちが「よく断食している」と言っています。「よく」とは、このような毎週の断食の実践を指しています。それは律法の求める範囲を超えたものでした。自分たちは、求められている以上の熱心さで断食している。それなのになぜ、あなたの弟子たちは断食していないのか。これがヨハネの弟子たちの問いかけでした。
それに対して、主イエスは15節でお答えになられます。主イエスは婚礼の話題を出しながら、今は断食によって悲しむべきときではないと語られます。結婚式のときに喪服を着て悲しんでいるのは、明らかに場違いです。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々でも、婚礼さなかに断食することはしないでしょう。つまり彼らの問題点は、今が婚礼のような喜ぶべき時だということを分かっていなかった点にあります。主イエスはなぜ、今は喜ぶべきときだと言われたのでしょうか。それは、花婿が一緒にいるときだからです。婚礼の時の中心である花婿の横で断食するのは、場違いです。では主イエスが言われる花婿とは誰でしょうか。約束された救い主として世に来られた主イエスキリスト御自身であられます。それゆえに、主イエスが来られる前に行っていたような断食を、今はするべきときではない。それが主イエスのお答えでした。ならば主イエスが来られた今、もはや断食は不要なのでしょうか。主イエスはそうは言われません。花婿が奪い取られる時が来たときには、主イエスの弟子たちも断食することになると言われています。これは後の主イエスの十字架を暗示しています。そのとき弟子たちは、主イエスのもとから逃げ去った自らの罪に直面することになります。そのときには主イエスの弟子たちも悔い改めの断食をするのです。
ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の断食と、主イエスの弟子たちの断食。見た目の行動は、さほど変わりません。しかし断食をするとき、さらには、断食をしながら向けるまなざしの方向性が異なります。この違いを主イエスは、古さと新しさを取り上げた二つのたとえをもって説明されています(16,17節)。今や救い主である主イエスが来られ、新しい時代が到来しています。それゆえに律法の行い、すなわち信仰的な実践においても、新しさが必要です。断食における古さと新しさの違いはどこにあるでしょうか。主イエスの弟子たちは、断食をするにしてもしないにしても、その根拠は花婿である主イエスキリストにあります。主イエスが共におられるから、彼らは今は断食しません。しかし主イエスが取り去られたとき、彼らは断食することになります。どちらにしても、そのまなざしはキリストに向けられています。一方で、ヨハネの弟子たちの断食には、キリストへの視点がありません。それはキリストが来られた時代には、場違いな実践です。主イエスから目を背けて一生懸命断食をしていたのがヨハネの弟子たちでした。彼らの視線は救い主にではなく、求められた以上に断食を頑張る自分自身に向けられています。
わたしたちも、キリストが地上に来られた後の新しい時代を生きています。だからこそあらゆる信仰的な実践において、キリストに目を向けることが大切です。わたしたちのために十字架におかかりくださった救い主イエスキリストに目を向けて、わたしたちはあらゆることを行います。ときに自らの罪が示され、悲しみ、悔い改めるときもあるでしょう。そこでもわたしたちは、十字架のキリストに目を向けて悲しみ、悔い改めるのです。このことについて主イエスは17節で、新しいぶどう酒を新しい革袋に入れれば両方とも長もちすると言われています。喜びながら信仰生活を送るときも、悲しみに沈んで悔い改めるときも、キリストにさえ目を向ければ、わたしたちの信仰生活は長持ちするのです。しかしときにわたしたちの信仰的実践から、キリストが抜け落ちてしまうことがあります。すると眼差しが立派に頑張る自らに向き、自らを喜ぶことになります。悲しみ、悔い改めるときも、キリストがいないならば、我慢して頑張ることが目的になります。そのような信仰的な実践は、長持ちしません。
信仰生活は苦難の連続です。それでもなおわたしたちが信仰生活を続けるために必要なことは、我慢や意思の強さでもありません。キリストを見つめ続けることです。このお方から目を背けず、このお方と共に、悩み多きこの世界を生き抜いてまいろうではありませんか。