2025年5月25日礼拝説教「理不尽のなかで主が共に」

聖書箇所:創世記39章1~23節

理不尽のなかで主が共に

 

 エジプトに連れてこられたヨセフを買ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルでした。カナンの地で大切な子供として過ごしていた彼が、エジプトで奴隷とされてました。このヨセフの歩みは、後に神の民がエジプトで奴隷生活を送ることを暗示しています。すでに彼は、理不尽な境遇に置かれていました。しかし主がヨセフと共にいてくださいました。それゆえに彼は、うまく事を運ぶことができました。主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけます。身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、ついには財産をすべて彼の手に任せました。彼は家に仕える者の中で、いちばん上に立つ者とされました。主はヨセフのゆえに、そのエジプト人の家をも祝福されました。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及びました。主人は全財産をヤコブの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなくなりました。

 こうして取り立てられたヨセフは顔も美しく、体つきも優れていました(6節)。イケメンだったのです。主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言います。「わたしの床に入りなさい」。主人の妻はヨセフに性的な関係を迫り、彼を誘惑するのでした。この誘惑をヨセフはきっぱり断ります。その理由としてヨセフは何よりも、神に罪を犯すことができないことを挙げています。主人の妻は毎日ヨセフに言い寄りましたが、彼が耳を貸すことはありませんでした。そのような中、11節で事件が起こります。家の者が一人も家の中にいないなかで、彼女はヨセフの着物をつかんで言うのでした。「わたしの床に入りなさい」。彼女はヨセフの意思を無視し、暴力的にヨセフを自らの物としようとしました。性暴力といえば、男性が女性に対するものが多いでしょう。しかし聖書では、女性が男性に対して行う性暴力の現実も描かれています。ヨセフは着物を残し、なんとか逃げて外へ出たのでした。ここで彼女のヨセフへの執着が、憎悪へと変わります。彼女は自分のものにならないヨセフを陥れるために、家の者たちを呼び寄せて彼を告発します(14,15節)。彼女は最初の一文を、「わたし」ではなく「わたしたち」と語ります。ヨセフの昇進を快く思わない家の者たちに対して、わたしたちは皆、あのヘブライ人の奴隷の犠牲者だと主人の妻は言ってのけるのです。怖いぐらいに巧妙な言い方です。そして彼女はそのことを主人にも告げて言います(17,18節)。この言い方も巧妙です。ここでは、ヨセフを連れて来た主人を責めるような言い方はしていません。ただ、ヨセフがヘブライ人すなわち外国人奴隷であることを強調しています。そしてその奴隷が、わたしを襲おうとしたのだと主張したのです。この言葉を聞いて主人は怒ります。ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ牢獄へと入れたのでした。巧妙かつ理不尽な告発によって、彼は囚人にされてしまいました。しかし21節や23節を見ますと、そのような状況でもなお、主がヨセフと共におられたことが記されています。ヨセフは監守長の目に留まり、この牢獄の管理を任されることになったのでした。

 39章は、冒頭2節で主が共にいてくださったことが記され、最後の23節でも、主が共におられることが報告されています。折が良くても悪くても、常に主がヨセフと共にいてくださった。このことが、今日のお話の中心です。これは裏を返しますと、主が共にいてくださる中でも理不尽を受けるということでもあります。今日の箇所においては、ポティファルの妻の誘惑と告発が目に留まります。しかし彼女は、純粋な加害者ではありません。鍵になるのが6節です。最後の「全く気を遣わなかった」という言葉。これは原典ヘブライ語では「知らない」という言葉です。旧約聖書において「知る」は、愛することを意味する言葉でもあります。つまり主人は、自分が食べるもの以外には愛を向けていませんでした。ゆえに主人の妻は夫からの愛を受けることができず、愛に飢えていました。そこにイケメンなヨセフがやってきたわけです。彼女がヨセフに熱を上げて誘惑した気持ちはよくわかります。しかし彼女にとってのヨセフは、あくまで自らの欲望を満たすための道具でしかありませんでした。主人から愛されていなかったのは、妻だけではありません。ヨセフもまた、愛されていません。主人にとってのヨセフもまた、自らの食欲を満たすための道具でしかありませんでした。ですから今日の箇所でのヨセフへの理不尽は、彼が認められ、ポティファルの全財産の管理を任されているときからすでに始まっていました。成功しているときですら、彼は孤独でした。そのような彼となおも共にいてくださったのは、主なる神だけでありました。

 このことが分かりますと、なぜヨセフが主人の妻からの誘惑を退けたのかが分かります。このとき孤独な彼を本当の意味で愛し、彼と共にいてくださったのが、主なる神だけだったからです。このお方のみが、順境のときであろうと逆境のときであろうと、変わらずヨセフに愛を向け続け、共にいてくださったのです。このようにいつも変わらぬ愛を注ぎ続けてくださる主なる神が、今もわたしたちに愛を向け、わたしたちと共にいてくださっています。そのために、キリストが十字架におかかりくださいました。このことを、わたしたちは改めて深く覚えてまいりたいのです。

 このお方との関係を切ろうとする誘惑は、たくさんあります。主人の妻の誘惑は、まさにそれを象徴しています。そのなかで、変わらぬ愛を注ぎ、いつも共に生きてくださる主なる神との関係を、守り抜いてまいりましょう。変わることのない愛の神と共に、わたしたちはここからそれぞれの場所へと遣わされていくのです。