2025年5月11日礼拝説教「罪のゆるしを前にして」

 

聖書箇所:マタイによる福音書9章1~8節

罪のゆるしを前にして

 

 8章から主イエスによる癒しの出来事が続いています。この箇所においても、引き続き主イエスの癒しの奇跡が記されています。しかし今日の箇所では、癒しと共に罪の赦しが取り上げられている点が特徴的です。罪の赦し。それは教会における一つの劇的な出来事です。何よりも主イエスキリストは、わたしたちの罪が赦されるために十字架にかかられました。この罪の赦しは、人が救われることにおいて起こる極めて重要な出来事です。そしてこのマタイ福音書における重要なキーワードの一つでもあります。一方で、罪の赦しによってわたしたちの生活状況に劇的な変化が起こるわけではありません。それゆえに、今直面している悩みの解消や病の癒しといった、目に見えて分かりやすいご利益を、わたしたちは罪の赦しよりも重視する傾向があるように思います。だからこそ改めて、罪の赦しという驚くべき恵みの出来事について、今日の箇所から教えられたいと願っています。

 今日のお話ではまず、人々が中風の人を床に寝かせたまま主イエスのところへ連れて来るところから始まります。主イエスはその人たちの信仰をご覧になられ、罪の赦しを宣言されました。中風の人自身の個人的な信仰だけによってもたらされたのではありません。彼を連れてきた人々の信仰が主イエスの前に重要な役割を担っています。信仰によって罪赦されて救われる。これが宗教改革における主要な主張点の一つです。しかしこの言葉は往々にして、その人自身の信仰がその人自身を救う、というような個人な出来事として捉えられがちです。しかし誰かが主イエスを信じる背後には、その人のために祈り願う周囲の人々の信仰があります。そのような信仰の関係のなかでこそ、人は主イエスを信じる信仰が与えられるのです。今日の箇所においても、まさにこの信仰の関係性が示されています。主イエスは中風の人を運んできた人々の信仰をご覧になって、中風の人の罪の赦しを宣言されたのです。

 この喜ばしい罪の赦しの宣言に対し、ある律法学者が疑いの眼差しを向けていました。この人は心の中で「この男は神を冒瀆している」と思ったのでした。そこにあったのは、罪の赦しをなすのは神であり、人間の領分を超えるという理解です。それゆえこの律法学者は、人間の領分を大きく超えた主イエスの罪の赦しの宣言を神の冒涜と見たのでした。この人が主イエスに対して批判的な目を向けたのは、彼が神を重んじようとする熱心を強く持っていたからです。彼にとって聖書の神は、この上なく偉大なお方でした。確かにそうなのです。それゆえ彼は、偉大な神の名誉を何よりも大切にしていました。人は決して神の領分を踏み越えてはならないと、彼は強く確信していました。しかし主イエスは4節で、それを「悪いこと」と評価しておられます。

 聖書における悪や罪は、神の御心から離れているという観点から理解されなければなりません。神は聖書全体をとおして、弱い者に目を留められ、罪を赦されるお方として記されています。この神の御心が、今まさに主イエスによって実現しています。しかし彼は、それを喜ぶことができませんでした。神がどのようなお方で、何を望まれているか。これが抜け落ちたまま、神の御前にへりくだる形式や行為ばかりが強調される。ここにこそ、この律法学者の問題点があります。あたかも彼自身が神の名誉を守る番人であるかのように、主イエスの行為を裁いています。この点で彼は非常に傲慢です。

 この律法学者の傲慢さに対する主イエスの応答とその結果が4節から7節に記されています。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいのでしょうか。目に見える結果が求められる後者の方が困難に見えます。その言葉を、主イエスはあえて口にされます。するとその通りに、中風の人は癒されたのでした。病を癒す力をお持ちであられるこの主イエスキリストこそ、地上で罪を赦す権威をお持ちである。このことが、ここに示されたのです。それが8節の群衆の賛美につながっています。

 8節で言われている人間とは、直接には主イエスを指していることは明らかです。神は、人の罪を赦すというご自身の権威を、人として地上を歩まれている主イエスにおゆだねになられました。しかしこの後主イエスは、この権威を弟子たちに、そして後に続く教会にゆだねられます(マタイ16:19)。ここで改めて考えたいのです。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいのでしょうか。もしかすると中風の症状を、現代医学ならば改善することができるかもしれません。しかし罪の赦しは、違います。これは神の領分です。あの十字架の苦しみを身に受けられた主イエスキリストこそが語ることのできる言葉。それが「あなたの罪は赦される」です。この恐るべき大いなる罪の赦しの言葉が、主イエスキリストを信じるわたしたちにもゆだねられています。

 

 罪の赦しを公に宣言する権威をキリストからゆだねられているのは、直接的には教会です。しかしわたしたち一人一人にも、十字架のキリストの権威によって罪の赦しの言葉を語ることはできるのです。キリストのもとに連れてこられた人々に、もう大丈夫だと、あなたの罪は赦されたのだと宣言することは、主イエスの十字架を信じる者ならばできるのです。それができる権威を、神はわたしたちにもゆだねてくださっています。だからこそこのゆだねられた権威を、わたしたちもまた用いてまいりたいのです。神御自身が、わたしたちをとおしてキリストの十字架による罪の赦しが示されていくことを望んでおられます。このおどろくべき神の権威をキリストからゆだねられた者として、ここから共に歩みだしてまいりましょう。