聖書箇所:創世記38章1~26節
正しさはどこに
創世記38章には、前後の流れから独立したように見えるユダとタマルのお話が記されます。しかもここに記されている内容は、現代の感覚からすればありえないようなものです。この部分は読み飛ばして、39章へと進みたいという思いに駆られます。しかしこのような箇所が、ここに記されていることに大きな意味があるのです。その大切なメッセージを受け取ってまいりたいのです。
今日のお話は、ユダに三人の息子たちが生まれるところから始まります。6節でユダは、長男のエルにタマルという嫁を迎えました。しかしエルは主の意に反したため、主は彼を殺されました。ユダは次男であるオナンに対し、兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たして兄のために子孫を残すよう命じました。これはレビラート婚に基づくものです(申命記25:5以下参照)。現代の感覚からすると、極めて非人道的に見える制度です。けれどもこのときはまだ、神の民が少ない時代です。この時代においてはレビラート婚が、アブラハムになされた神の約束の実現のために大切な役割を果たしていました。このレビラート婚に基づいて、オナンはタマルをめとります。しかし彼は兄に子孫を与えないように、子種を地面に流しました。これはこの当時において、神の約束の実現への反抗を意味します。だからこそ、彼もまた殺されたのでした。事情はともあれ、ユダは三人いる息子たちのうち二人を失ったことになります。そのため11節でユダはタマルに、シェラが成人するまで父の家でやもめのまま暮らすよう命じます(11節)。それはユダが、三男のシェラまで失うことを恐れたためでした。その結果タマルは、シェラの婚約者でありつつ、やもめという弱い立場で暮らすことになります。彼女には、それを拒否する権限がなかったと思われます。
さて、かなりの年月が経ちました。しかしタマルは、依然としてやもめとして父の家で暮らしていました。約束されたレビラート婚は、依然として実施されていません。タマルは不安定かつ弱い立場で暮らし続けることを強いられました。ここでタマルは、驚くべき行動を起こします。娼婦の格好をして、義父であるユダと性的関係を持つのです。その結果、ユダの子を身ごもったのでした。義父と関係をもつことは、律法が禁じていることです。しかも彼女はシェラの婚約者です。婚約者が、他者と関係をもつことは、律法によれば死罪にあたります。主イエスの母マリアが身ごもったときに、婚約者であったヨセフが悩んだのもそのためです。タマルの妊娠を知ったユダは、律法に基づいて機械的に彼女を焼き殺そうとしました。ここでタマルは、自らを妊娠させたのがユダであることの証拠を提示します。これが重要な意味を持ちます。なぜなら律法によれば、他人の婚約者と性的関係を持った者もまた死罪だからです。つまり律法に基づくならば、ユダ自身もまた死罪になるのです。ユダは自らが律法に命じられたレビラート婚を実施していないことを棚上げしたまま、都合の良い律法だけを取り上げてタマルを殺そうとしました。しかしタマルを妊娠させたのが自らであるという証拠を示されることで、ユダが自らの不誠実さに気づいたのでした。そして26節で「わたしよりも彼女の方が正しい」と発言したのでした。
今日のお話から、聖書における正しさとは何かを考えさせられます。ユダは、神の律法を自らの都合よく取捨選択しています。そして、苦しい立場のタマルが律法を犯したことを知るや否や、事情を聴くこともなく一方的に都合のよい律法を持ち出して裁こうとしたのでした。それに対してタマルの行動は、レビラート婚という神の律法が実施されず、それゆえに弱い立場に追い込まれたためにやむを得ず起こしたものでした。当然のことながら聖書は、このような性的な不品行を積極的に肯定することはありません。しかし彼女を、機械的に非難していない点にも注目すべきです。彼女の行動の目的は、レビラート婚という神の律法が正しく実行されることでした。それはアブラハムへの神の約束が実現するために定められた制度です。ですからタマルは結局のところ、神の約束の実現を求めて行動を起こしたのです。
もちろんタマルが律法に反して行動したのは事実です。ユダも、単に「彼女が正しい」とは言っていません。「彼女の方が正しい」という言い方です。わたしたちが正しさを考えるとき、どうしても「正しいか正しくないか」「有罪か無罪か」といった0か100かの二元論で考えがちです。しかし聖書における正しさに、そのような視点はありません。ユダよりはタマルの方が正しいのです。タマルの正しさの源泉は、苦しい状況の中でなお、神の約束の実現に期待して行動した点にあります。うわべだけの行動ではなく、このような動機や期待という面から、聖書の正しさは理解されるべきです。
このようなタマルの行動がもたらした結果が、マタイ1:1~6の系図に端的に記されています。このときタマルが宿した子供からダビデ王が生まれ、そして主イエスキリストがお生まれになります。苦しい中で神の約束の実現に期待したタマルの行動が、主イエスキリストの十字架と復活の救いへと用いられたのです。わたしたちもまた、神の約束の実現に期待し、行動を起こしてまいりたいのです。もちろんわたしたちには罪と弱さがあり、この世の中は理想的ではありません。しかし重箱の隅をつつくように、わたしたちの行動一つ一つを聖書の言葉に基づいて機械的に指摘して責めることを、神は望まれませんでした。そのためにキリストを十字架に渡すことまでしてくださいました。この恵みをいただいたわたしたちは、ただ御言葉に示された神の約束に期待し、恐れず一歩を踏み出してまいろうではありませんか。そこにこそ聖書に示された神の正しさがあるのです。