聖書箇所:ルカによる福音書23章56節b~24章12節
信じられない復活
本当の意味でイースターを喜ぶためには、十字架上で死なれた主イエスキリストが三日目に復活されたことを信じて受け入れることが必要です。この復活は、キリスト教においてはあらゆる教えの土台であり根幹です。しかしながらそれを信じることが難しいのです。それは現代を生きる人々だけではありません。生前主イエスと共に過ごし、直接主イエスの十字架に接したはずの弟子たちや婦人たちもまた同じでした。しかしこの人々も、最終的には主イエスの復活を信じたのでした。そして、この復活を世界中に宣べ伝えていくことになります。信じられない人々が信じ、それだけでなく主の復活を喜び、宣べ伝える者となる。そこにはどのようなきっかけがあったのでしょうか。その様子を、見てまいりましょう。
十字架にかけられ、死んで葬られた主イエスの墓に最初に行ったのは、婦人たちでした。この婦人たちは、弟子たちと同じく主イエスと共に旅をしてきた人々です。彼女らは安息日を終えた週の初めの日の明け方早く、準備していた香料を持って墓に行きました。一刻も早く行きたいという気持ちがよく表れています。それほど主イエスの死を、悲しみ悼んでいました。悲しみの中で墓についた婦人たちが見ると、墓を封じているはずの石がすでに脇に転がしてありました。中に入っても主イエスの遺体が見当たりません。彼女らはこの出来事に途方にくれます。すると輝く衣を着た二人の人がそばに現れます。輝く衣を着るというのは、主の御使いを示すための表現です。御使いたちは復活の事実を彼女らに告げました(5~7節)。
主イエスは地上のご生涯を歩まれる中で、すでにご自身の十字架と復活について明かしておられました(ルカ9:22や44など)。すでに主イエスが語れたお言葉を思い出せと、御使いたちは婦人たちに語ります。この部分の原文ギリシア語には「あなたがたに」という意味が明確に含まれています。単に弟子たちに語られた主イエスを、横にいた婦人たちも耳にしたのではありません。主イエスがご自身の十字架と復活を予告したあの言葉は、この婦人たちにも語られた言葉です。そのことを思い出せと、御使いたちは婦人たちに訴えます。こうして婦人たちは、主イエスの言葉を思い出しました。これは単に忘れていたことを思い出した、という軽い言葉ではありません。もっと積極的に、この主イエスの復活の予告の言葉を思い起こして受け入れたことを示す言葉です。このようにして婦人たちは、主イエスの復活を信じたのでした。
このような経験を経て彼女らは使徒たちのところに戻り、このことを話しました。しかし使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じませんでした。信じた婦人たちと、信じられない使徒たち。両者の間には大きなギャップがあります。このギャップを生んだのは、今日の箇所で婦人たちが直面した二つの体験があります。まずは空の墓を見たことです。目の前の現実をよく見ることが、主イエスの復活を信じるための第一歩です。12節ではペトロもまた、その一歩を踏み出しています。しかしそれだけでは十分ではありません。空の墓を見た婦人たちは、途方にくれていました。ヨハネ福音書20章を見ると、空の墓を見たマグダラのマリアは墓泥棒の仕業を疑っているようです。そのように理解するのが普通でありましょう。この理解に基づくならば、空の墓は喜ぶべきことではなく、むしろ悲しみの出来事です。この状態から、喜びの出来事として主イエスの復活を信じるためには何が必要でしょうか。その鍵が6節にある主のみ使いの言葉にあります。すなわち主イエスの言葉を、わたしに語られたものとして思い起こして受け入れることです。ここにこそ、驚くべき主イエスの復活を喜ぶべきこととして信じることができる鍵があるのです。
このことが当てはまるのは婦人たちだけではありません。今日の箇所では信じることができなかった使徒たちをはじめとする弟子たちも同じです。この先24:45ではこのように記されています。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」
弟子たちは、復活の主イエスキリストをその目で見てもなお、復活を信じることができていませんでした。最終的に彼らが主の復活を信じたのは、主イエスによって聖書の御言葉を悟ったときであり、そのために彼らの心の目が開かれたときです。聖書の言葉を悟り、そこに記されたキリストの言葉をわたしに語られた言葉として受けとめる。このことをとおしてわたしたちは、キリストの復活を信じ、それを喜ぶ者とされるのです。裏を返せば、主の御言葉なしには、この復活のできごとは本当の意味では喜びにはなり得ません。それこそ主の復活のできごとは、たわ言のようにしか思えないでありましょう。
わたしたちは主イエスキリストの復活を信じ、そして喜んでここに集っています。復活を信じていない人々から見れば、それは滑稽に見えるでしょう。イースターを喜びとするか、滑稽に思うか。それを分けるのは、聖書にある主イエスキリストの言葉を、罪人であるこのわたしに語られたものとして信じるか否かです。このことを、ここに集められたわたしたちもまた改めて覚えてまいろうではありませんか。そして改めて、主イエスの語られた、時に厳しくも愛の御言葉を、死を超えた復活の希望とその約束の言葉を、このわたしに語られた言葉として思い起こそうではありませんか。そしてその言葉をわたしへの言葉として受けとめて、その愛と希望の内に歩んでまいろうではありませんか。そこにおいてこそ主イエスの復活の喜びは、本当の意味でわたしたちのものとなるのです。