2025年1月26日礼拝説教「主が愛してくださったように愛し合う」

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章31~35節

主が愛してくださったように愛し合う

 

 今年の年間標語は、「主が愛してくださったように愛し合う」です。「互いに愛し合いなさい」。これは十字架にかかられる直前に、主イエスが弟子たちに与えられたご命令です。主イエスの弟子か否かは、このご命令に従って互いに愛し合うかどうかにかかっています。だからこそわたしたちは、互いに愛し合うべく努力します。そのなかで、愛し合えない現実に直面することになります。

 しかしここで考えるべきことがあります。「愛する」とは、どうゆうことなのでしょうか。案外このことが深く考えられないまま、教会で「愛」という言葉が用いられているように思います。もし愛という言葉を、「親切にする、仲良くする、嫌なことをされても我慢する」といった表面的な行動として理解するならば、信仰生活はただ我慢を強いられて表面上の仲の良さを取り繕うだけの、薄っぺらなものになってしまうでしょう。愛は、教会にとって極めて大切な言葉です。それゆえに、愛を正しく理解することが必要です。今日の箇所において主イエスは、単純に「互いに愛し合いなさい」と命じておられるのではありません。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい」と命じておられます。つまり主イエスの弟子か否かの違いは、互いに愛し合っているか、互いに憎み合っているか、というような単純で分かりやすいものではありません。主イエスの弟子であるか否かに関わらず、誰をも愛さない人などこの世にはいません。そうであるならば、主イエスの弟子か否かの違いは、主イエスが愛したように愛し合うのか、それとも、各々が思い描く自分勝手な愛を押し付け合うのか、という点にあるのです。だからこそ主の弟子であるわたしたちは何よりもまず、主イエスがわたしたちに向けてくださっている愛を、聖書の御言葉から学ぶ必要があります。

 今日の箇所において主イエスは「互いに愛し合いなさい」というご命令を、栄光との関連のなかで命じておられます。31節で主イエスは、人の子(すなわち主イエスご自身)が、栄光を受けたと言われています。そして神もまた、人の子である主イエスによって栄光をお受けになられました。辞書によると「栄光を受ける」とは、褒めたたえられる、栄誉を受ける、賛美される、ということを意味する言葉です。先週、トランプ大統領が就任しました。多くの支持者の方々が囲み、大統領の就任を喜んでいました。おそらくトランプ大統領のこの状況が、栄光を受けるという言葉から思い浮かべる一般的なイメージでありましょう。いうまでもなく唯一の救い主である主イエスキリストこそが、すべての人々から褒めたたえられ、栄誉を受け、賛美されるべきお方です。今や、そのような時が来たと、今日の箇所で主イエスは宣言されています。しかし自らの栄光を宣言された主イエスの置かれた状況は、栄光とはほど遠いものでした。31節の冒頭で、ユダが裏切って出て行きました。そして次の36節からは、一番弟子であるペトロの離反が予告されます。実際にペトロは、十字架の主イエスを拒否して離反することになります。主イエスを真っ先に讃えるべき弟子たちが、彼から離れていくのです。こうして主イエスは、ただお一人で十字架におかかりになられることになります。この十字架への道が決定的となったのが、ユダの裏切りとペトロの離反の間に位置する、今日の場面なのです。この場面において、主イエスは言われたのです。人の子は栄光を受けた、と。つまり主イエスの言われる栄光とは、主イエスが十字架におかかりになることによってお受けになる栄光なのです。褒めたたえる人々の真ん中に立って称賛を受けるような栄光とはまったく逆の、ただ独りで十字架へと向かう道を、主イエスは今歩もうとしておられます。この道を歩むわたしこそが、栄光を受けたのだと、主イエスは言われました。

 わたしたちは今、この十字架の道を歩まれた主イエスキリストを礼拝し、このお方の栄光を讃えています。それはこのお方が、わたしたちのために十字架におかかりくださったからです。キリストはその気になれば、大統領の就任式のような栄光をお受けになることもできたのです。しかしあえて、それとは逆の十字架の道をたどられました。それは、ここにいるわたしの罪を担い、この罪人であるわたしが救われるためでした。それほどまでにこのお方は、主を裏切る罪人であるわたしたちを愛してくださいました。ただわたしたちが救われることを喜びとし、そのために自らの栄光を捨てて十字架の重荷を担われました。この愛で、主イエスはわたしたちを愛してくださいました。主イエスキリストが自らの栄光を求めないお方だからこそ、わたしたちはこのお方を礼拝し、このお方の栄光を讃えています。

 

 このお方が、わたしたちに命じておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。それは自らの誉れを求めながら誰かに親切にするような自分勝手な愛ではありません。嫌われるのを恐れて不条理な仕打ちを我慢するような、自らを守るための愛でもありません。ただひたすらに兄弟姉妹の救いを喜びとし、そのために行動を起こす愛です。この愛でわたしたちが互いに愛し合う。このことによってここにいるわたしたちが主イエスの弟子であることを、皆が知るようになるのです。主イエスはわたしたちの救いのために、そして父なる神の栄光のために、自らの栄光をお求めになられませんでした。ここに主イエスの愛が示されています。だからこそわたしたちもまた、自らの栄光のためではなく、主イエスの栄光のために互いに愛し合いながら、主の弟子としてこの一年を歩みだしていくのです。