2024年11月3日礼拝説教「自らの裁きで裁かれる」

 

聖書箇所:マタイによる福音書7章1~6節

自らの裁きで裁かれる

 

 本日の箇所で主イエスは、弟子たちに裁くなと命じておられます。自らの落ち度を脇において、自分があたかも正義の執行人であるかのように他者を裁いてしまう。キリスト者に限らず、誰もが当てはまることです。しかしこれが主イエスの言葉である以上、一般的な人生訓として受け取られるべきではありません。まず、ここで語られている裁きの範囲について押さえておく必要があります。3節を見ますと、兄弟が登場します。つまりここでの裁きとは、同じ主を信じる兄弟姉妹に対する裁きが特に想定されています。兄弟姉妹に対する裁きですから、それは御言葉に基づく罪の指摘が該当します。もちろん罪を指摘し、悔い改めに導くことは、教会の大切な役割の一つです。しかしそういったものを飛び越して、個人的に厳しく兄弟姉妹の罪を裁いてしまうことが禁じられています。その理由は、自らの裁く裁きで神から裁かれ、自らの量る秤で神から量り与えられるからです。兄弟姉妹に無慈悲に接すると、それはそのまま自らに返ってくるのです。

 続く3~4節には、兄弟の罪をひたすらに裁こうとする行為の問題点が指摘されています。ここでは、おが屑と丸太が対比されています。これらはどちらもその人の罪をあらわしています。そして、自らの目にある丸太が無視されています。兄弟よりも大きな罪が自らにあるのに、それを無視してひたすらに兄弟姉妹の小さな罪を裁いて取り除こうとする。この問題点を、主イエスは指摘しておられます。このように行動する人々が、5節では偽善者よ、と呼びかけられています。偽善者は、直接的にはファリサイ派や律法学者たちが意図されています。彼らは同じ神を信じる兄弟姉妹に対して、律法、すなわち聖書の言葉を語りながら、そこがだめだと、もっとこうしなければならない、と裁いていました。それは悪意によるのではなく、人々の罪を取り除くための善意の行為です。しかしそこに、自らが罪人であるという視点はありません。そこで5節で主イエスはまず自分の目から丸太を取りぞくようにと命じておられます。自らの大きな罪が取り除かれることが必要です。すべてはここから始まります。ここから始めるべきなのです。

 自らの目にある丸太、すなわち自らの罪を取り除くのは、キリストの十字架によるほかありません。ここから、兄弟姉妹を裁く行為の根本的な問題点が浮き彫りになります。キリストの十字架がないという点です。それが善意の行為であったとしても、御言葉に基づく指摘であったとしても、キリストの十字架がなければ厳しい裁きにならざるを得ません。そしてキリストの十字架がないのであれば、自らへの神の裁きも、必然的に厳しいものにならざるを得ません。御言葉を語っているのに、キリストの十字架がない。これが、兄弟姉妹を裁いてしまう者の根本的な問題点です。しかしもし、キリストの十字架によって自らの丸太を取り除かれたならば、はっきり見えるようになります。裁くのではなく、キリストの十字架のゆえに赦すことによって、兄弟の罪を取り除くことができるのです。

 続く6節は、豚に真珠ということわざのもとになった御言葉です。これまでの文脈をふまえると、神聖なもの、そして真珠が指すのは、天の国であり、キリストの十字架の救いであり、聖書の御言葉です。そして犬や豚は、その価値が分からない人々を指しています。このような人々が、犬や豚だと言いたいのではありません。ここで指摘されているのは、一方的に真珠を投げる側の問題です。相手のことを理解しようともせずに、聖書ではこう書かれていると、一方的に御言葉を投げつける行為を主イエスは戒めておられます。それは人を救うどころか、かえって傷つけ、怒りを生むことになります。牧師をしていますと、御言葉に救われた方だけでなく、御言葉に傷つけられた方に接する機会もたくさんあります。事情を理解されることなく、一方的に御言葉を投げつけられると、人は傷つくのです。わたしたちは日常的に、相手の事情を理解することなく一方的に御言葉を投げつけてしまうことがあるのです。体が弱く会堂に来ることに困難がある兄弟姉妹に、あなたが礼拝に来ないのは信仰が弱いからだと語ってしまう。お金に困っている兄弟姉妹に、献金が少ないのは罪だと語ってしまう。罪が目についた兄弟姉妹に対して、その事情を無視して、一方的に御言葉の真珠を投げつけてはなりません。それはかえって兄弟姉妹を傷つけ、怒らせ、つまずかせてしまいます。往々にしてわたしたちは、「相手を救うため」という善意で御言葉を投げつけてしまいがちです。しかし善意で語った御言葉であっても、むしろ善意で語られた御言葉でこそ、人は傷つくのです。

 

 御言葉には力があります。人を救い、死を超えて復活させる力です。しかし一方で御言葉は人を怒らせ、つまずかせ、破壊する力もあります。それを分けるのは、そこにキリストの十字架があるかどうか、です。御言葉は、キリストの十字架によって人を赦し、人を救い、人を建てあげるための言葉です。もちろん、ときに御言葉によって厳しく罪を指摘し、ときには兄弟姉妹に戒規を執行しなければならないときもあります。しかしその目的はどこまでも、その人をキリストの十字架による赦しへと立ち戻らせるためです。御言葉によって兄弟姉妹を励まそうとするわたしたちがまずすべきことは、自らの目にある丸太をキリストの十字架によって取り除くことです。こうして赦されたわたしたちが語るのは、人を責め滅ぼす裁きの言葉ではなく、人を救う赦しの御言葉です。キリストの十字架によって赦されたわたしたちこそが、御言葉によって兄弟姉妹に赦しを告げ、罪を取り去るのです。裁く者としてではなく赦された赦し人として、キリストの十字架の赦しを世に携えていこうではありませんか。